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アジア初のワールドカップ出場国 - オランダ領東インドのサッカー史

ワールドカップのアジア2次予選が開幕し、日本代表はミャンマー、そしてシリア代表をそれぞれ5-0で破り、好スタートを切った。

今回のワールドカップは23回目を迎え、カナダ、メキシコ、アメリカの3国共同開催となる。

注目すべきは、今回アジア圏の出場枠が4.5から8.5に増加したことだ。

これは、近年高まっているアジアのサッカー熱と経済効果を取り込む意図があると考えられる。

さて、アジアのワールドカップに関する歴史を振り返ると、1938年のフランス大会にまで遡る。

この大会に、ワールドカップ史上初めてアジアの国が参加することになる。

そのアジアの国とはインドネシアである。当時はオランダ領東インドであった。

この記事では、アジアで初めてワールドカップに出場したオランダ領東インドのサッカー史について概観する。

アジアやインドネシアのサッカー、歴史、文化に興味のある方にとって参考になれば幸いだ。

オランダ領東インドのサッカーの歴史

オランダ領東インド(以下蘭領東インド)で、初めてサッカーに関する記録が登場するのが19世紀後半とされている。

この頃、スマトラ島のメダンやジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)で初めてのサッカークラブが設立され、その後アマチュアのサッカークラブが各地で立ち上がった。

この時代の蘭領東インドはオランダ人をはじめとしたヨーロッパ人、華人、土着の人々といった多様なコミュニティから成り立っていた。

20世紀初頭には、これらのコミュニティで数多くのアマチュアサッカークラブが誕生し、それらを束ねるためのサッカー協会が設立された。

1919年にヨーロッパ人コミュニティ主体のNIVB(Nederlandsche Indische Voetbal Bond)という協会が結成され、1924年にはFIFAに加盟した。

このヨーロッパ人コミュニティの動きに触発されて、華人コミュニティは1930年にHNVB(Hwa Nan Voetbal Bond)を、土着の人々は同年にPSSI(Persatoean Sepakraga Seloeroeh Indonesia)を結成した。

これらの協会は蘭領東インド内で対等の力関係を持っていたが、国際的にはNIVBのみがFIFAに認められていた。

こういった背景から、1920年~30年代の対外国際試合はNIVBの管理下で行われ、選ばれたメンバーもNIVB加盟チームから選出された。

しかしながら、NIVB内で不協和音が生じる。

協会内の方針不一致と加盟チームの脱退が原因で、1935年に同協会は解散した。

同年に新たにNIVU(Nederlandsch-Indische Voetbal Unie)という協会を結成。

NIVUはNIVBの機能を引き継ぎ、引き続きFIFAに加盟した。

1937年、NIVUとPSSIは翌年行われるフランスワールドカップに向けて協力することに合意した。

しかし、1938年のワールドカップ出場メンバーはすべてNIVU所属であり、PSSIはこれに不満を抱き、両協会の関係は1年で決裂した。

1942年、日本軍による蘭領東インドの侵攻後、PSSIとNIVUは一時解散した。

戦後、1949年にインドネシアは正式にオランダから独立しインドネシア共和国となる。この際NIVUはPSSIに統合され、今日のPSSI(Persatuan Sepakbola Seluruh India / インドネシアサッカー協会)となる。

その後、PSSIは1952年にFIFAに加盟し今日に至る。

オランダ領東インドによる対外国際試合

1920年代にいくつかの国際親善試合が組まれているが、公式記録としてカウントされていない。

実際に公式記録として掲載されているのは以下の内容である。

1934年 極東選手権(Far Eastern Championship Games)

公式記録の中で蘭領東インドが最初に出場した国際大会は、1934年に開催された第10回極東選手権とされている。

この国際大会はフィリピンのマニラで行われ、蘭領東インド、日本、中華民国(現中国)、フィリピンの4チームが総当たりで競い合った。

蘭領東インド代表はジャワ島の強豪チームから選手を選出し大会に挑んだ。

初戦で日本を7-1で圧倒し、その後中華民国に0-2、地元フィリピンに2-3で敗れたが、得失点差で準優勝に輝いた。

優勝チームは中華民国だった。

この大会の出場は、蘭領東インドにとって史上初の公式国際大会への参加とみなされている。

ワールドカップ予選

1938年 FIFAワールドカップ フランス大会のポスター
著作者:Henri Desmé, パブリックドメイン

File:1938 fifa worldcup poster.jpg - Wikimedia Commons

国際サッカー連盟(FIFA)が主催する「FIFAワールドカップ」は1930年にウルグアイで初めて開催された。

以降、第二次大戦の時期を除いて、4年ごとに国際的なサッカー大会として開催されている。

1934年の大会はイタリアで行われたが、1930年と1934年の大会にはアジアのチームは出場していなかった。

これは大陸間プレーオフで敗退したためである。

1938年のフランスワールドカップに向けて、アジア予選が計画されていた。

予定されていた参加国は、蘭領東インドと日本のみであった。

両者の対戦はベトナムのサイゴンで行われるはずだったが、日本が日中戦争に突入し、予選から撤退した(棄権なのか出場権を剥奪されたのかは不明)。

FIFAは不戦勝での出場に納得いかず、蘭領東インドに対してロッテルダムでアメリカとの対戦を計画した。

しかしアメリカも資金面の問題で失格となり、結果的にオランダ領東インドは一戦も交えることなくアジア地域として初のワールドカップへの出場が決定した。

1938年 FIFAワールドカップ フランス本大会

初戦のハンガリー戦に出場する蘭領東インドのイレブン
出展:HISTORY OF SOCCER, by Andy Macfarlane (June 26, 2022)

1938年のフランスワールドカップに出場した蘭領東インドの代表メンバーは、先述したようにNIVU加盟チームから選出された。

メンバーは蘭領東インド生まれのヨーロッパ人、土着の選手、華人選手で構成され、宗教や民族構成の面でも多様だった。

当時のワールドカップは現在のようなグループリーグ方式ではなく、敗退後即帰国のトーナメント形式で実施されていた。

この大会には16チームが参加していた(オーストリアは後に棄権)。

オランダ領東インドの初戦の相手は1934年大会で初出場を果たしたハンガリーだった。試合は6月5日にランス市のスタッド・オーギュスト=ドローヌ(Stade Auguste-Delaune)で開催され、約9,000人の観衆が集まった。

ちなみにこのスタジアムは現在、日本代表の伊東純也選手や中村敬斗選手が所属するスタッド・ドゥ・ランス(Stade de Reims)のホームスタジアムとなっている。

スタッド・オーギュスト=ドローヌのメインスタンド
著作者:Wahrerwattwurm, CC BY-SA 2.0 DE DEED

File:Stade Auguste-Delaune 2 Tribünen.JPG - Wikimedia Commons

蘭領東インドはオランダの国歌「ヴィルヘルムス」を使用し、国旗もオランダ国旗であった。

ユニフォームはオランダ本国と同じくオレンジ色のジャージ、白いパンツ、水色の靴下だった。

蘭領東インドの主将アフマド・ナウィル(Achmad Nawir)と、ハンガリーのジョルギ・サロシ(György Sárosi )の両主将が博士号を持っている点も注目された。

アフマド・ナウィル
ポジションはミッドフィルダー
試合中は眼鏡をかけていたという
著作者:Unknown, パブリックドメイン

File:Achmad Nawir.jpg - Wikimedia Commons

ジョルギ・サロシ
現役引退後はイタリアに移住し、
ジェノア、ユーベ、ローマなどを指揮した。
著作者:Unknown, パブリックドメイン

File:Sarosi Gyorgy.jpg - Wikimedia Commons

試合はハンガリーが前半4得点、後半2点を追加し、最終的に6-0で蘭領東インドは敗れ大会から姿を消した。

ハンガリーはその後決勝に進出し、イタリアに4-2で敗れて準優勝となった。

なお宗主国オランダも出場していたが、初戦のチェコスロヴァキア戦にて3-0で敗れて大会を去った。

当時の蘭領東インドとハンガリーの試合はダイジェストのような形で動画に残っており、興味のある方は以下のYou Tubeをご覧ください。

www.youtube.com

オランダ宗主国とのフレンドリーマッチ

ワールドカップ初戦の数週間後、6月26日にオランダと蘭領東インドはアムステルダムのオリンピックスタジアムで親善試合を行った。

結果は9-2でオランダ本国の圧勝。

尚この親善試合にはベルンハルト殿下(オランダ王配)も観戦に訪れていたらしい。

ベルンハルト殿下 
ユリアナ女王の王配
著作者:Mieremet, Rob / Anefo, CC BY-SA 3.0 NL DEED

File:Bernhard of Lippe-Biesterfeld 1976.jpg - Wikimedia Commons

この試合を最後に、蘭領東インドは国際サッカーの舞台から姿を消した。

第二次世界大戦と1945年から1949年までのインドネシア独立戦争がその主な理由である。

次に国際舞台に現れたのは、インドネシアが独立後の1956年、メルボルンオリンピックにおいてである。

この大会でインドネシアは、伝説的なゴールキーパー、レフ・ヤシンを擁するソビエト連邦と対戦した。

これは、新たに独立した国家としてインドネシアが国際サッカーに復帰した象徴的な瞬間であった。

ちなみに、インドネシア代表が再びオランダ代表と相まみえたのは、上述のフレンドリーマッチから75年後の2013年になってからであった。

あとがき

現在インドネシアでは1994年に発足したプロサッカーリーグ「リーガ・インドネシア」が存在し、その中でも「リーガ1」が最上位カテゴリーとして機能している(リーガ1は日本のJ1に相当する)。

インドネシアのサッカー熱は極めて高く、週末には国内リーグ戦やイングランド・プレミアリーグの試合観戦に熱中する人々が多い。

サッカーチームに関する知識も豊富で、日本のJリーグについても意外と詳しい人たちがいる。

街角では露店がテレビとゲーム機を外に設置し、子供たちが「ウイニングイレブン」をストリートスタイルで楽しむ姿もよく見かける。

また私が駐在していた子会社では、年に1度フットサル大会が開催されていた。

この大会に向けての情熱は凄まじく、ユニフォームのデザインから招待状の準備まで、細部にわたり手が込んでいた。

大会では驚くべきスーパープレーが繰り広げられ驚かされた。

19世紀後半に始まったインドネシアのサッカー史。

現代のインドネシアでは、上述したようにな形で深く浸透しており興味深い。

この歴史を知ることで、現代のインドネシアのサッカーに新たな魅力を見出すことができるのではないかと思う。

来年1月にアジアカップで日本代表とインドネシア代表が対戦する。

両国間の白熱した試合を楽しみにしている。

 

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*参考文献:

The Dutch East Indies’ summer of football – Back Page Football

Kyoto University Research Information Repository: コロニアルから鏡像へ--地方から見たインドネシア・フットボール史序説

Sebelum PSSI, NIVB Jadi Federasi Sepak Bola Pertama di Indonesia - Semua Halaman - National Geographic

The Dutch East Indies, a colonial team at a World Cup - Football Makes History

Chinese Faces in Indonesian Football: Celebrated Past, Humble Present | SWAKINTAKA

アジアンテイストな曲 - 美しいアジアの世界へ

先月、「中華を感じさせるBGM 5選」というブログ記事を書いた。

その記事を読んだ前職の先輩から「他にアジア風の曲はないか?」という問い合わせがあった。

アジアへ旅行した思い出を写真と共に振り返る時、よくアジア風の音楽を聴くことがある。

そこで今回は、個人的によく聴くアジアンテイストの曲を7つ選んで紹介する。

アジアンな雰囲気を楽しみたい人、アジアの思い出に浸りたい人、新たな音楽に出会いたい人に参考になれば幸いだ。

👇先月書いたブログ記事👇

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アジアンテイストな曲 7選

1. Asience (Fast Piano Version)

www.youtube.com 

故・坂本龍一氏の楽曲「Asience」は、2004年11月24日にリリースされた彼のコンピレーションアルバム『/04』(スラッシュ・ゼロヨン)に収められている。

この楽曲は、花王のシャンプーブランド「アジエンス(Asience)」のコマーシャルに使用された。

日本や中国など東アジアの文化が持つ東洋美に焦点を当て、黒髪の美しさを商品コンセプトとして打ち出していた。

製品のキャッチコピーは「アジアンビューティー 世界が嫉妬する髪へ」だった。

この曲を聞くと、CMに出演していたチャン・ツィーを思い出す人も多いのではないか。

アジアの「美」を表現したこの旋律は、シンプルながらも心に響く。

2. トンマッコルへようこそ - Welcome to Dongmakgol

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久石譲氏が初めて手掛けた韓国映画のサウンドトラック。

「トンマッコルにようこそ」は、2005年に韓国で大ヒットを記録した映画である。

この作品は、シン・ハギュン、チョン・ジェヨン、カン・ヘジョン主演の映画で、歴代4位の観客動員数を達成した。

久石譲氏はこの映画の楽曲にて、大韓民国映画大賞最優秀音楽賞を受賞し、大鐘賞にもノミネートされたそうだ。

映画は南北戦争時のトンマッコルという村を舞台に、最初は対立していた韓国軍、北朝鮮人民軍、米軍が徐々に互いを認め合う過程をコミカルに描いている。

ちなみに、トンマッコルとは、「子供のように純粋な村」という意味があるらしい。

以下のように同じ曲でフルートバージョンのものも収録されており、その美しい旋律は映画の世界観をより深く表現している。

www.youtube.com

3. Above the Treetops

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アメリカの著名なフュージョンギタリストであるパット・メセニー氏(Pat Metheny)が、1992年にリリースしたアルバム「Secret Story」に収録された楽曲である。

カンボジアの『ブオン・スオン(Buong Suong)』という讃美歌からインスピレーションを得ているそうだ。

「Above the Treetops」は、アジアの伝統的かつ、民族的な音楽を彷彿とさせる曲調が特徴的だが、メセニー氏のギター演奏がそれに見事に溶け込んでいる。

東洋と西洋の音楽が融合したこの楽曲は、小さな鐘などの音がアジア的な雰囲気を際立たせ、深みのあるベースの音が曲の響きをさらに豊かにしている。

この曲は聴く者を神秘的な世界へと誘う。

4. はるかな旅

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この楽曲は、NHKスペシャル「日本人 はるかな旅」に使用されたサウンドトラックで、吉田潔氏が制作した。

吉田潔氏は日本の著名な作曲家、編曲家、音楽プロデューサーである。

この番組は、2001年に放映され、日本人の起源と現代の日本人の成り立ちを探究する番組だった。

従来の概念に挑む新しい説を、当時の最新の科学的成果をもとに紹介していた。

吉田潔氏のこの曲には、日本の伝統楽器が使用され、「和」や「東洋」の雰囲気が感じられる。

特に動画の1分48秒からの盛り上がりは、心を揺さぶる力がある。

まるで、「我々日本人はどこから来たのか?」、その遥かなる歴史的な旅へと誘うようである。

5. Asian XTC

www.youtube.com

この曲は、久石譲氏のアルバム「Asian X.T.C.」に収録されている。

このアルバムは、「美しく官能的でポップなアジア」をコンセプトに制作されたそうだ。

韓国、香港や中国の映画音楽を手掛けた経験から、アジアというアイデンティティを深く意識するようになったという同氏が、自身のアジアへの繋がりと感情を音楽で表現しようと試みた作品だそうだ。

このアルバムは、東洋と西洋の楽器を巧みに融合させ、独特のアジアンメロディを生み出している。

特に、曲中の1分45秒で聞かれる二胡のソロ演奏は、深い感動を与える。

久石譲氏の音楽は、アジアの文化と音楽の豊かな多様性を、独自のスタイルで見事に捉えていると感じる。

6. 風の唄(Piano Version)

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この曲は京都幻想劇団(Kyoto Fantasy Troupe)と凋叶棕(Diao Ye Zong)の楽曲。

凋叶棕は音楽同人サークルで、東方Projectのアレンジ楽曲を手掛けるそう。

ピアノの旋律が美しく、東洋のエッセンスを巧みに取り入れいる感じがして印象的である。

YouTubeでこの曲に偶然出会って以来、アジアな雰囲気に浸りたい時によく聴くようになった。

7. Asian Sea

www.youtube.com

「Asian Sea」は、作曲家 黄永燦氏(ウォン・ウィンツァン)によって1989年にリリースされたアルバム「フレグランス」に収録されている。

1949年、香港出身の父と日中ハーフの母の間に神戸で生まれた同氏。

現在、即興演奏を取り入れたニューエイジミュージックやヒーリングミュージックを主に制作している。

黄氏は“瞑想のピアニスト”とも称されており、NHK「にっぽん紀行」のテーマ曲「旅のはじめに」や、Eテレ「こころの時代」のテーマ曲の演奏でも知られている。

「Asian Sea」を聴くと、アジアの美しい自然が目に浮かぶ。

繊細で美しいメロディが特徴的で、心に深く響く作品だ。

あとがき

如何でしたでしょうか。

中には既にご存知の楽曲があったかもしれませんね。

今回紹介できたのはほんの一部。

まだまだ他にもたくさん、魅力的なアジアンテイストの曲はあります。

また別の機会に、是非紹介をさせて頂けたらと思います。

今回紹介した楽曲について、感想やコメントがあればぜひお聞かせください。

このブログ記事が、皆さんの音楽の世界を広げる一助となれば幸いです。

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鶴舞で本格ベトナム料理を味わう - ベトナムキッチン アンヴィエット(An Viet)【名古屋市鶴舞】

本日は午前中に鶴舞エリアに用事があり、昼食はこのエリア近くのレストランで取ることにしました。

このエリアにはさまざまなアジア料理のレストランがありますが、友人の紹介で以前から気になっていたベトナムレストラン「ベトナムキッチン アン ヴィエット(An Viet)」さんを訪れることにしました。

本格的なベトナム料理をお洒落な雰囲気の店内で味わえると聞いていたので、大変ワクワクしながら訪れました。

このブログ記事では、名古屋市鶴舞エリアにあるベトナムレストラン「アン ヴィエット」さんを紹介します。

このレストランに興味がある方は、本記事を参考にして頂けたら幸いです。

1. ロケーション

地下鉄 鶴舞線 鶴舞駅から徒歩5分ほど

アン ヴィエットさんのロケーションは、上の地図の通りです。

電車でお越しの方は、地下鉄鶴舞線またはJR中央本線の鶴舞駅で下車してください。

今回、私は地下鉄の鶴舞駅から徒歩で向かいました。

約5分歩くと、以下の写真にある看板が見えてきます。

非常に分かりやすい場所にあります。

アン ヴィエットさん発見です!

2. お店の外観

お店の外観は以下の写真の通りです。

ベトナムの建物を彷彿とさせる外観だ

このレストランの外観を見ると、まるでベトナムの建物を思い起こさせます。

その理由は、外観に使われている薄黄色にあると思われます。

私がハノイやホーチミンに滞在していた際にも、同じ色合いの建物をしばしば見かけました。

ベトナムの建物で薄黄色が使用されている理由は、南フランスの影響によるものだそうです。

ベトナムは1887年から1954年までフランスの植民地でした。

フランスの南部プロヴァンス地方では、建物にこのような薄黄色がよく用いられているとのこと。

このフランスの「南方」のイメージがベトナムの建物にも取り入れられているのです。

ベトナム ホーチミンの市庁舎
薄黄色を身にまとっている
Photo by Pexels

お洒落なドアを開けて店内に入りました。

店内にはアジアンな雑貨が所々に配置され、ベトナムの人力車と思われるものも見られます。

家具は木製で温もりがあり、内装はベトナムの街中にある洗練されたカフェスタイルを思わせます。

店内の照明を含め、ベトナムの雰囲気が十分に感じられました。

本来は店内の写真を撮りたかったのですが、お客さんが多くて断念しました。

11時50分頃に到着したのですが、既に店内は賑わっていました。

たまたま空いている席が1つあり、なんとかすぐに座ることができました。

今後は電話で確認してから訪れた方が良さそうだと感じました。

奥様方や学生と思しき人々が、交流を楽しみながらベトナム料理を味わっていました。

食欲がそそられます。

「早く食べたい!」と思い、急いでメニューを確認しました。

3. ランチメニュー

ランチタイムに訪れたため、ランチメニューについてご紹介します。

メニューは以下の写真の通りとなります。

店員の方の許可を得て、写真を撮影しました。

ベトナムセット
フォー、バインミー、春巻きとベトナムの定番料理を一気に堪能できる

フォー、バインミー、コムディアと各々に分かれたセットメニュー

フォー、バインミー、コムディアと各々に分かれたコースメニュー

私が選んだのは「ベトナムセット」です。

春巻きは「揚げ春巻き」と「生春巻き」から選べますが、私は「生春巻き」を選びました。

また、食後のベトナムコーヒー(ホット、練乳入り)も注文しました。

このセットにはバインミー(ハーフサイズ)、フォー(ハーフサイズ)、生春巻き、ベトナムコーヒーが含まれており、ベトナムの食文化を存分に味わうことができます。

ベトナムの定番料理を一気に堪能されたい方に、特におすすめのセットメニューだと感じました。

生春巻き

注文してからすぐに生春巻きが到着しました。

生春巻き、到着

目の前に届けられた生春巻きは、見た目からして新鮮で、色鮮やかな具材が透き通るライスペーパー越しに見えます。

中には、シャキシャキとしたレタス、ぷりっぷりのエビ、そして柔らかなヌードルが巧みに巻かれています。

それぞれの素材の色と質感が美しく調和していますね。

この生春巻きは、まさに手作りの芸術品のよう。

食べるのがもったいないほどですが、その魅力的な外観が、早く味わいたいという気持ちを強くします。

生春巻きの盛り付け方も美しい

生春巻きが2個、見栄え良く盛り付けられていますね。

ただ単に並べられたのではなく、細部にまでこだわりが感じられ、高級感が漂います。

店員の方からは、ピーナッツのタレをかけることをお勧めされました。

ピーナッツのタレをかけた

それではいただきます!

これはおいしい!!

生春巻きを口に運んだ瞬間、新鮮さが口の中に広がりました。

ライスペーパーはとてももっちりとしていて柔らかく、噛むごとに具材が絶妙に絡み合います。

シャキシャキの野菜と柔らかい麺、そしてエビの新鮮な風味が口いっぱいに広がり、エビのプリッとした弾力が印象的です。

ピーナッツのタレを加えることで、甘みとコクが増し、味わいがより深くなります。

非常に上品な味わいが楽しめました。

次に、パクチーを添えて生春巻きを食べてみました。

今度はパクチーと一緒に・・・

おお!これは・・・

口にすると、パクチー特有の香りがすぐに口の中で広がります。

爽やかなパクチーの風味が生春巻きの味を一層引き立てます。

不思議なことに、パクチーを加えるだけで、まるでアジアの風景が目の前に広がるような感覚になります。

ノンラーをかぶったお婆さんが田園で佇むような、そんな光景が思い浮かびます。

パクチーが加わることで生春巻きの味わいは豊かになるだけでなく、さらに私の記憶にあるアジアの景色を思い起こさせてくれました。

エビがぷりっぷり!!

フォー

生春巻きをおいしく頂いた後、フォーとバインミーがテーブルに運ばれてきました。

右がフォー、左がバインミー

フォーの湯気が立ちのぼり、スパイスの香りが鼻をくすぐります。

透き通ったスープには、柔らかそうな麺が沈み、新鮮で緑色豊かなハーブや具材が美しく浮かんでいます。

一方のバインミーは、パリパリとしたバゲットに色とりどりの具材が挟まれており、目にも鮮やかです。

ベトナムのサンドイッチとしてのその姿は、シンプルながらも味の期待を高めます。

「麺が伸びないうちに・・・」と、フォーから頂きました。

フォーからはその香りだけで食欲をそそられます

まずは、フォーの出汁からいただきます。

フォーの出汁

スープの表面には薄く油が浮いており、それが光に反射してキラキラとしていますね。

香りは穏やかで、深みがあります。

鶏肉の旨味と野菜から来る自然の心地よい香りが食欲をそそります。

スープを一口飲むと、その滑らかで澄んだ味わいが口の中に広がります。

肉や骨から抽出された旨味が際立ち、それに軽く香る野菜の甘さが加わることで、バランスの取れた味わいが生まれています。

出汁は濃厚すぎず、かといって薄すぎない、絶妙な味わいです。

この出汁は、フォーの麺や具材との相性を考え抜かれたものであり、その単純ながらも洗練された味わいが、フォーの魅力の一つであることがわかります。

続いて、麺を食します。

フォーの麺

麺は透明感があり、スープの中で柔らかく揺れています。

見た目からは、その滑らかさと軽やかさが伝わってきますね。

一口食べると、麺は口の中で優しく広がります。

その食感は柔らかく、しかし同時に適度な弾力があり、噛むごとに小麦の自然な甘みが感じられます。

麺はスープの味をよく吸い込んでおり、それによって麺自体の味わいも豊かになっている感じがしました。

この麺のシンプルながらも心地よい食感と味わいは、フォーの出汁と完璧に調和しており、ベトナム料理の繊細さと奥深さを感じさせます。

鶏肉と一緒に・・・

続いて、鶏肉と一緒にフォーの麺を味わいます。

おお!これはうまい!

口に入れた瞬間、鶏肉の柔らかさとジューシーさが際立ちます。

鶏肉の優しくもしっかりとした風味が麺のシンプルさと見事に結びついて、口の中で調和します。

麺の柔らかい食感と鶏肉の滑らかさが一緒になることで、まるで異なるテクスチャの組み合わせが生まれ、それがとても心地よく、味わい深いです。

鶏肉、もう一切れ頂きます!

バインミー

さて、フォーのお次はバインミーです。

バインミーはベトナムのサンドイッチで、フランスのバゲットに様々な具材を挟んだものです。

「フランスのバゲット」というと硬いパンをイメージしがちですが、ご安心ください。

バインミーのバゲットは外側はサクサクしており、中はふわふわで食べやすいのです。

ベトナムのストリートフードとしても非常に人気があり、さまざまなバリエーションが存在します。

ベトナムのサンドイッチ「バインミー」

ちょっと違うアングルからも写真を撮ってみました。

色彩豊かなバインミー

サンドイッチの中には、新鮮な野菜、お肉、ハーブなどがぎっしりと詰まっています。

見ただけで食欲がそそられますね!

それでは早速いただきます!!

卵がふわっふわ

これはうますぎる!!

バインミーを一口噛んだ瞬間、バゲットの外側のサクサクとした食感と、内側のふわふわとした柔らかさが心地よかったです。

卵の若干香ばしい風味と、ふわっふわの食感が、バインミーの味わいと口当たりをより楽しくしています。

さらに、食べ進めるとツナと思われる味が感じられ、それが徐々に全体の味を包み込んでいきます。

その瞬間、ベトナムの片田舎の屋台で食べたバインミーの記憶が蘇りました。

ツナのペーストがもたらす味わい、卵のフワフワ感、そしてバゲットのサクサク感が織り成す味わいが、その屋台の思い出を更に鮮明に思い起こさせてくれました。

店員の方よりチリソースもおすすめされたので、バインミーにかけてみました。

チリソースをかけて食べてみた

チリソースを加えたことで、バインミーの風味が一層豊かになりました!!

このソースがもたらすピリッとした辛味と甘みが、バゲットのサクサク感や卵のふわふわした食感と絶妙に調和しました。

ツナのペーストとの組み合わせも素晴らしく、辛味がツナの深い味わいを更に引き立てています。

新鮮な野菜のシャキシャキ感とハーブの爽やかな香りも、チリソースのスパイシーさによって一層際立ちました。

ごちそうさまでした😋😋

めちゃくちゃ満足です!!!

ベトナムコーヒー

さて食後に、ベトナムコーヒー(ホット、練乳入り)をいただきました。

ベトナムコーヒー、到着

コーヒーグラス、ベトナム式のコーヒードリッパー、そして小皿のデザインが、風情を感じさせ、とても良かったです。

ドリッパーの蓋の真上に「Trung Nguyen(チュン グエン)」と記載されている
チュン グエンとは、ベトナムで有名なコーヒー会社の社名でもある

時折蓋を開け、コーヒーの抽出具合を確認する

だいぶ抽出できているので、ドリッパーを外す

これは熱いので、外すときは気を付けて

色合いが深く、濃厚な茶色
光にかざすと、色の深みがより一層際立つ

別のアングルからもコーヒーを撮影
コーヒーの濃い茶色と、練乳の白色が織りなすコントラストが魅力的

練乳をかき混ぜた

練乳とコーヒーをかき混ぜると、始めはきれいなマーブル模様を創り出します。

そしてそれが徐々に一つになり、クリーミーで均一な色合いへと変化していきます。

混ざり合った後の色は、柔らかなキャラメル色になり、視覚的にも温かみを感じさせます。

練乳入りのベトナムコーヒーを口に含むと、まずはその濃厚で芳醇なコーヒーの味わいが広がります。

コーヒーの深い苦味と練乳の甘さが見事に調和しており、それが口の中で絶妙なバランスを生み出しています。

練乳のクリーミーな甘さがコーヒーの強さをやわらげ、まろやかで心地よい、上品な味わいに変えてくれます。

店内のベトナム風な雰囲気も相まって、まるでベトナムのカフェでベトナムコーヒーを飲んでいるような感覚に浸ることができました😋😋

4. あとがき

アン ヴィエットさん、ごちそうさまでした!

今回は名古屋市鶴舞エリアにあるベトナムレストラン「アンヴィエット」の訪問記をお届けしました。

提供された料理はどれもクオリティが高く、非常に満足しました!

また「アン ヴィエット」さん、どうやら今池にテイクアウト専門店があるようです。

次回はそちらも訪れてみたいと思います!

ベトナムが好きな方、ベトナム料理に興味がある方、新しい味を求めている方は、ぜひ「アン ヴィエット」さんを訪れてみてください!!

今池南にテイクアウト専門店があるそう。
店名は「アンディ ベトナム(An Di Vietnam)」

※アン ヴィエットさんのホームページ

www.anviet-fukiage.com

 

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黄家の物語 - 知られざるインドネシアの華人富豪

インドネシア マラン(Malang)にあった建源の製糖工場
著作者:不明, CC BY-SA 3.0 DEED

File:COLLECTIE TROPENMUSEUM Suikerfabriek Krebet Malang TMnr 10011672.jpg - Wikimedia Commons

過去にタイの包装機械市場に携わった際に「建源グループ」というタイの会社を耳にしたことがある。

この会社をご存知の方はいらっしゃるだろうか?

包装・印刷機器業界に詳しい人なら、この名前を聞いたことがあるかもしれない。

この会社は主に欧州製の包装機や印刷機をタイはもちろん、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどに供給している機械商社だ。

もともとは米とか砂糖、タピオカ粉、チーク材やゴムなどを海外に輸出していたらしい。

その後、レジ機、両替機、さらには二輪車まで取り扱い、現在は包装機や印刷機に注力するようになった。

また、不動産事業も手がけている。

この会社、調べていくと元はインドネシアに本拠を置く企業だったようである。

19世紀半ばにインドネシアのスマラン(Semarang)で創業した、あるインドネシアの華人が経営する貿易会社だった。

当時は「インドネシア」ではなく、「オランダ領東インド」と呼ばれていた時代だ。

20世紀初頭には、東南アジアで最大の複合企業(コングロマリット)にまで成長したらしい。

当時、その複合企業は「オイ・チョンハム・コンツェルン(Oei Tiong Ham Concern)」と呼ばれていた。

建源はその子会社の一つに過ぎなかった。

このコンツェルンを率いたオイ・チョンハム、中国名「黃仲涵」は、東南アジアで「アジアのロックフェラー」と称されるほどの影響力を持っていた。

シンガポールのBukit Timah地区には彼の名を冠した通りが存在する。

この人物は一体、何者なのだろうか。

調べていくうちに、これまで知らなかった「黄家(Oei Family)」の壮大な物語に遭遇することになる。

このブログ記事では、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてアジアに大きな影響を与えた「黄家(Oei Family)」について独自に調べたことを記載する。

黄志信(Oei Tjie Sien)について

黄志信(Oei Tjie Sien)
黄志信图片_百度百科

生い立ち - 白手起家から「建源」の創業へ

黄志信が生まれた、福建省泉州市同安県の位置

黄志信(Oei Tjie Sien)は1835年に、清王朝時代の中国、福建省泉州市同安県で生まれた。

彼は比較的裕福な家庭で育ち、私塾で教育を受ける。

1850年、彼は「小刀会(しょうとうかい)」という秘密結社に加わり、その後太平天国の乱に参加したとされる。

この乱は清王朝に対するものだったが、政府の弾圧に耐えられず、1858年、23歳の時に中国福建省の厦門(アモイ)から船でオランダ領東インド(現在のインドネシア)ジャワ島のスマランに逃れる。

当時彼は既に結婚していたが、妻を中国に残すことになる。

インドネシア スマラン(Semarang)の位置
ジャワ島の中部にある

スマランに移住後、黄志信は行商人として生計を立て始めた。

彼は中国から磁器製の皿や茶碗を仕入れ、米を小袋に入れて家々を回り販売していた。

その後、彼は地元生まれの中産階級の華人女性と結婚することになる。

資金を蓄えた黄志信は、1863年に「建源公司(Kian Gwan)」という貿易会社をスマランに設立し、オランダ政府に正式に登録した。

この会社は、中国からハーブ、お香、茶、絹を輸入し、インドネシアから米、砂糖、タバコ、ガンビール(阿仙薬)などを輸出していたらしい。

輸出先は徐々に拡大し、タイやベトナムにも輸出するようになった。

黄志信はビジネスを更に拡大し続けるとともに、上述した華人女性との間に子供をもうける。

その子こそ、後に「アジアのロックフェラー」と言われる黄仲涵(Oei Tiong Ham)であった。

1893年、黄志信はビジネス界から引退し、息子の黃仲涵に事業を継がせた。

尚、黄志信は稼いだお金の一部を定期的に清の満州政府に送金しており、その結果、後年には清政府から恩赦を受け、中国への帰国が可能になっていたそうだ。

晩年はスマランで所有していた土地の管理と、蓮の栽培に専念していた。

黄志信は1900年に亡くなり、その生涯に幕を閉じた。

黄志信と三保洞

黄志信は慈善活動にも熱心であったそうで、地元スマランでは以下のようなエピソードが語り継がれている。

スマランに三保洞(サン・ポー・コン)という寺院がある。

この寺院は明朝時代の航海士、鄭和(ていわ)によって設立されたと言われている。

三保洞(サン・ポー・コン)
著作者:Yunita Lestari, CC BY-SA 3.0

File:Sam Po Kong Temple Semarang Indonesia.jpg - Wikimedia Commons

スマランの三保洞に設置されていいる、鄭和の像。
鄭和は中国・雲南省の出身でムスリムであった。
著作者:22Kartika, CC BY-SA 3.0

File:Zheng He statue (cropped).jpg - Wikimedia Commons

元々この寺院はムスリムのために建てられた寺院であったが、現在は仏教の活動にも利用され、様々な民族の人たちが訪れる。

地元コミュニティにとって非常に由緒正しい場所なのである。

さてこの寺院であるが、黄志信が存命の時代、ヨハネスというユダヤ人の地主が所有していた。

当時、地元の人たちが三保洞で祈る際には彼に料金を支払う必要があり、そのため地元民の反感を買っていた。

これを知った黄志信はこの寺院をヨハネスから購入し、一般に無料で公開するようにした。

これにより、彼は地元コミュニティから非常に尊敬され、慕われる存在となった。

彼のこの行動は、地域社会への貢献として今日も高く評価されている。

黄志信の謎

さてここまで黄志信の生い立ちなどを見てきたが、彼の生涯には未だ謎が多い。

彼はインドネシアに着の身着のまま渡り、オランダ植民地政府との関係を築き、富豪へと上り詰めた。

当時、オランダ植民地政府とビジネスで密接に関係していたのは、15〜16世紀にインドネシアに渡った華人の末裔で、上流階級に属するカバン・アタス(Cabang Atas)が一般的だったと言われる。

黄志信はカバン・アタスにも属さず、人脈もない中で、中産階級の華人と結婚し、富と地位を築いた点で評価されている。

しかしそもそも、彼がどうやって行商人になれたのかは謎である。

インドネシアに渡った当初、ある華人の家に住み込み、そこでポーター(荷物運び)として働いていたとの話もある。

その家の主人が彼を気に入り、娘との結婚を許し、資金を提供して行商を始めさせたという噂もあるが、確証はない。

もっというと、彼がなぜインドネシアを目指したのかも不明だ。

これは私の勝手な推測に過ぎないが、彼が所属していた「小刀会」が何らか関わっていいないだろうか。

小刀会は「天地会(てんちかい)」の分枝と言われており、「天地会」は「洪門(ホンメン)」とも呼ばれる。

ちなみに、欧米では天地会=洪門を英語で「Chinese Freemasons(中国のフリーメイソン)」とも呼んでいる。

彼はこの組織の助けや伝手を借りたりしていないだろうか?

まあ・・・素人の勝手な憶測ですが・・・。

黄仲涵(Oei Tiong Ham)について

黃仲涵(Oei Tiong Ham)
著作者:不明、パブリックドメイン

File:Oei Tiong Ham.jpg - Wikimedia Commons

生い立ち - 「砂糖王」、そして「アジアのロックフェラー」へ

黄仲涵(Oei Tiong Ham)は、1866年にインドネシアのスマランで生まれた。

当初、彼は父親の貿易会社「建源(Kian Gwan)」でビジネスに従事していたが、更なる事業拡大のため新たな商材としてアヘンに着目した。

19世紀末、アヘン市場での支配を目指し、1889年に老舗のアヘン取引会社が破産したことを機に、オランダ植民地政府との取引契約を獲得する。

1893年、黄仲涵は正式に父から建源を引き継ぎ、事業の多様化を図り、東南アジアで最大の企業の一つへと成長させていった。

彼は中部ジャワのアヘン市場を掌握した後、砂糖の市場も独占していった。

黄仲涵は華人経営のサトウキビ工場に融資を行い、1880年代の経済危機で返済不能に陥った工場から5つの砂糖工場を取得する。

これにより砂糖は会社の主力商品となり、黄仲涵は「砂糖王」という異名を得るに至る。

1890年代から1920年代にかけて、「建源」は急速な成長と事業の多様化を遂げ、ロンドン、アムステルダム、シンガポール、バンコク、ニューヨークに支店を設立し、銀行業、蒸気船事業、不動産開発、新聞事業、大規模な卸売ビジネスを展開していく。

黄仲涵の個人資産は当時、JPモルガンなどのアメリカの金融王や実業家に匹敵するレベルに達したと言われている。

このようにして黃仲涵は父・黄志信の会社を大きく発展させ、20世紀初頭の東南アジアで最大の複合企業「Oei Tiong Ham Concern(オイ・チョンハム・コンツェルン)」に成長させた。

黄仲涵はこのように豊かな栄華を誇ったが、1920年には故郷のスマランを離れ、現在のシンガポールに移住した。

彼が移住した理由の一つとして、オランダ植民地の相続法と重税制度への不満があり、これを避けるためだったとされている。

当時、オランダ植民地政府の法律では、インドネシアの国民は国外到着後3ヶ月以内にオランダ領事館へ報告する義務があり、報告しなかった場合には市民権が剥奪される規定があったが、黄仲涵はこの報告を行わなかったそうだ。

ただ彼が移住する8年前の1912年には、シンガポールのある海運会社を買収し、この地域に支社も既に設立していた。

この事業展開により、シンガポールは黃仲涵にとって重要な拠点となりつつあった。

ちなみに、この海運会社には、後にシンガポール初代首相となるリー・クアンユー(Lee Kuan Yew)の祖父、リー・フンロン(Lee Hoon Leong)が働いていたことでも知られている。

しかし、1924年に黄仲涵は8人の妻と26人の「正式な」子供を残し、突如57歳で亡くなる。

彼の遺体は、故郷のスマランに戻り、父・黄志信の墓の隣に埋葬されていると言われている。

オイ・チョンハム・コンツェルンのその後

黄仲涵のビジネスは彼の死後、9人の息子たちに継承された。

しかしながら、1949年のインドネシア共和国の独立に伴い、オイ・チョンハム・コンツェルンは大きな転換期を迎えることとなる。

インドネシアのハッタ副大統領とオランダのユリアナ女王(オランダ ハーグにて)
女王がオランダからインドネシアへの主権の移譲に署名している様子。
インドネシアの独立戦争は1945年~1949年に勃発した。
著作者:AnsyahF, パブリックドメイン

File:Indonesian National Revolution montage.jpg - Wikimedia Commons

1961年、インドネシア政府の経済犯罪裁判所はオイ・チョンハム・コンツェルンがインドネシア国内に持つ全資産の押収と国有化を決定。

これには砂糖プランテーションや工場も含まれていた。

その結果、オイ・チョンハム・コンツェルンは徐々に解体。

1964年、インドネシア政府はこれらの資産を管理するためPT Rajawali Nusantara Indonesiaという持株会社を設立。

現在、この会社は砂糖やその他農産物、畜産、水産など幅広い事業を展開し、インドネシアの国営企業として重要な位置を占めている。

一方、インドネシア国外にあった建源の海外オフィスは独立した会社となり、現在は黄仲涵の子息たちが運営している。

黄仲涵の謎

ここまで黄仲涵の生い立ちなどを見てきた。

黄仲涵の生涯も、彼の父と同様、いくつかの謎が残る。

彼が買収した海運会社に、後にシンガポールの初代首相となるリー・クアンユーの祖父が勤務していたのは、単なる偶然だろうか。

また彼は、57歳の若さで心臓発作により急逝したとされている。

本当に心臓発作で亡くなったのだろうか。

公表された彼の死因に対し、「彼の側室が毒殺したのでは?」と疑う人物がいた。

その人物とは黄仲涵の娘、黄恵蘭(Oei Hui-Lan)である。

黄蕙蘭(Oei Hui-Lan)について

黄蕙蘭(Oei Hui Lan)
著作者:Compton Collier, パブリックドメイン

File:HuiLanAndLionel1920.png - Wikimedia Commons

生い立ち - 黄蕙蘭から「マダム・ウェリントン・クー」へ

黄蕙蘭(Oei Hui Lan)は、1889年にインドネシア・スマランで生まれた。

黄仲涵(Oei Tiong Ham)の最初の妻の娘である。

彼女は西洋式の教育を受け、インドネシア語、英語、フランス語、オランダ語、北京語、福建語を流暢に話すことができる。

1909年にアイルランド系の英国領事館職員と結婚し、ロンドンで暮らしていたが、1920年に離婚した。

この頃、黄蕙蘭はロンドンの社交界で有名であり、流行の先端を行く人物として、TatlerやThe Times紙などの雑誌にも度々取り上げられていたそうだ。

その後、彼女は中華民国の外交官で政治家であるウェリントン・クー(Wellington Koo - 顧 維鈞)と再婚した。

ウェリントン・クー(Wellington Koo - 顧 維鈞)
袁世凱の英文秘書官をも務め、パリ講和会議の中華民国の代表でもあった。
著作者:Photoprint copyrighted by Underwood., パブリックドメイン

File:Vi-Hyuin Wellington Koo, Half length, standing, facing front, outdoors.jpg - Wikimedia Commons

クーは1926年から1927年にかけて中華民国の代理総統を務め、その間、黄蕙蘭はファーストレディーとしての役割を果たし、「マダム・ウェリントン・クー(Madam Wellington Koo)」としても知られるようになる。

なおウェリントン・クーは、1945年には国連の設立に際して中華民国の首席代表となる。

黄蕙蘭はこの間、パリとロンドンの社交界で再び注目を集めることとなるが、1958年にウェリントン・クーと離婚する。

理由としては、クーが夫人の派手な生活スタイルについていけなかったとのことである。

その後、彼女の人生には特に明るい話題はなく・・・。

1960年代には、前述したように、インドネシア政府によって父が築いたビジネス帝国が細分化され、また自身が手掛けた船舶や自転車のビジネスも成功せず、1975年に「No Feast Lasts Forever - 沒有不散的筵席(宴は永遠に続かない)」という自伝を出版するに至る。

彼女は1992年にアメリカ ニューヨークで亡くなる。享年103歳だった。

黄蕙蘭が残したもの

黄蕙蘭(Oei Hui Lan)の肖像画
Charles Julian Theodore Tharp 1921年作、シンガポール プラナカン博物館所蔵
著作者:Charles Julian Theodore Tharp, パブリックドメイン

File:Oei Hui-lan portrait painting.jpg - Wikimedia Commons

黄蕙蘭の遺産は彼女の独特なファッションセンスにある。

ヨーロッパ式のレースズボンと中国伝統服、翡翠ネックレスを組み合わせたスタイルはアジアとヨーロッパの融合として評価されている。

また現代のチャイナドレスのスタイルを形作ったのも、黄蕙蘭の貢献が大きいと言われている。

1920年代から40年代にかけて「VOGUE」誌のベストドレッサーリストに何度も登場し、東西の文化的な親善を促進させたと称賛された。

彼女の肖像画、写真、ドレスは、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー、ニューヨークのメトロポリタン美術館、シンガポールのプラナカン博物館のコレクションに含まれている。

黄蕙蘭のスタイルと影響力は、ファッション界だけでなく、文化的な枠組みを超えた範囲で今もなお評価され続けている。

あとがき

今回、この家系を調べるに至ったきっかけは、黄蕙蘭(Oei Hui Lan)の写真に出会ったことだ。

アジアのアンティークコレクションを漁っている時に見つけた彼女の写真には「インドネシア人」と記されていた。

「誰だろう?」と思い調べたところ、彼女の父である黄仲涵(Oei Tiong Ham)に辿り着く。

黄仲涵について調べると、タイで聞いたことのある「建源」という単語に出くわし、懐かしさを感じた。

そしてこの建源を細かく調べた際に、黄仲涵の父・黄志信(Oei Tjie Sien)に至った。

今回調査するにあたり、いろいろ文献を読み込んだが、いかんせん日本語の情報が皆無に近かったので、英語、中国語(普通話)、インドネシア語をフルに駆使して調べた。

今回調べたことをすべて掲載することはできなかったが、ある程度、この家系に関する概略をまとめられたと思う。

調べている際に感じたのは、アジア史でそこそこ重要な家系だと思うのだが、なぜ日本であまり話題にならないのだろう?(それだけ需要がないからなのかな・・・)

ニッチながらも、そういった家系や歴史を紐解いて紹介するのが私の目標でもあるので、皆さんに少しでも興味をもって頂けたらアジア好きの私としては幸いです。

「この家系について知ってる!」など、何かコメント等ありましたら、お気軽にご連絡ください。

 

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*参考文献

kiangwan.com

Oei Tiong Ham: Miliarder di Hindia-Belanda dan Akhir Bisnisnya - Semua Halaman - National Geographic

Oei Tiong Ham, Konglomerat Pertama di Asia Tenggara di Abad 20 - BIBLIOTIKA

・Oei Tiong Ham Concern: The First Business Empire of Southeast Asia(1989), Yoshihira Kunio, https://kyoto-seas.org/pdf/27/2/270201.pdf

・太田康彦(2018), プラナカン 東南アジアを動かす謎の民, 日本経済新聞出版社

・山下清海(2023), 華僑・華人を知るための52章, 明石書店

Soong Mei-Ling, Oei Hui-Lan. Once upon a time | Vogue Italia

Gosipnya Sih...: Oei Tiong Ham

Oei Tiong Ham - Wikipedia

Oei Tjie Sien - Wikipedia

黄志信(建源公司创始人)_百度百科

Oei Hui-lan - Wikipedia

Madame Wellington Koo (née Hui-lan Oei) - Person - National Portrait Gallery

顧維鈞 - Wikipedia

インドネシア語を学ぶメリット - 元駐在員が語る

先日、友人と食事をしているときに「インドネシア語を学ぶメリットってある?」という質問を受けました。

このテーマについてあまり深く考えたことがなかったので、すぐに答えるのが難しかったです。

私は前職でインドネシアに4年間駐在しており、仕事の必要性からインドネシア語を勉強しました。

もし駐在がなければ、おそらく自分から学ぶことはなかったでしょう。

客観的に見て、インドネシア語は英語に比べてマイナーな言語です。

例えば、インドネシア語にも検定試験がありますが、英検5級に相当するE級を受験する人は日本国内で年間約500人くらいです。

これに対して、英検5級の受験者数は年間約30万人と言われています。

この数字から、インドネシア語のマイナーさが伺えます。

しかし友人の質問を受けて、インドネシア語を学ぶメリットについて考えてみることにしました。

この記事では、私の経験をもとに、インドネシア語を学ぶメリットについて考察しています。

インドネシアや、インドネシア語に興味がある方の参考になれば幸いです。

インドネシア語について

インドネシアは多様である
著作者:Gunawan Kartapranata, CC BY-SA 3.0

File:Indonesia Ethnic Groups Map English.svg - Wikimedia Commons

そもそもインドネシア語とは、どのような言語なのでしょうか。

まずその成り立ちについて、簡単に解説します。

意外と知られていないかもしれませんが、インドネシアには300から400もの民族が存在し、700を超える固有言語があります。

これは世界の言語の約10%にあたり、パプアニューギニアに次いで世界で2番目に言語が多い国と言われております。

1945年の独立時、インドネシアは民族間のコミュニケーションの問題に直面しました。

解決策として、歴史的に東南アジア地域で広く使われていたマレー語を基に、現在のインドネシア語を創り、国語として制定しました。

この経緯があるため、多くのインドネシア人はバイリンガル、もしくはトリリンガルです。

彼らは国語であるインドネシア語と、自身の民族の言語(例えばジャワ人ならジャワ語など)を話します。

また、異なる民族出身の両親であれば、国語のインドネシア語に加えて、それぞれの言語を身につけることがあります。

家庭内で父親とは父親の民族の言語で、母親とは母親の民族の言語で会話し、家族全体での会話はインドネシア語で行うケースもあります。

一方で、国語のインドネシア語しか話せない人もいます。

このように、インドネシア語は多様な人々を繋げる上で非常に重要な役割を果たしているのです。

ちなみにインドネシアでは、英語はほとんど通じません。

インドネシア語を学ぶメリット

さてここからは、インドネシア語を学ぶメリットについて、いくつかのポイントをご紹介します。

1. インドネシアに注力している企業での重要性が増す

ジャカルタの夜
Photo by Pexels

特に資金に余裕のない中小企業では、日本語を話せるインドネシア人を雇うことが予算的に難しい場合があります。

これは、日本語を話せるインドネシア人の給与が高いためです。

その結果、これらの企業は日本語や英語を話せないインドネシア人を採用する傾向にあります。

そのため、これらのインドネシア人社員をマネジメントするためには、当然インドネシア語が必要になります。

こういった会社ではインドネシア語が話せると、好待遇で現地に赴任できるチャンスがあります。

さらに、インドネシア語を話せることで、自らインドネシア系の企業を訪問し、新規開拓に向けた営業活動も可能になります。

インドネシア語ができることにより、会社の売上向上に貢献する可能性が広がり、会社からも重宝されることでしょう。

またインドネシアは約2億7000万人の人口を持ち、経済的に内需のポテンシャルが非常に高い国です。

GDPは毎年約5%増加しており、中間所得層も拡大しています。

このような状況の中、インドネシアへの進出を計画している企業にとって、インドネシア語を話せることは大きな利点となります。

そのため、インドネシア語を話せる人には、これらの企業からのオファーを受けやすくなるメリットがあります。

2. インドネシアの旅行がより楽しくなる

船で島々を旅する

インドネシア語を話せると、現地の人との会話が可能になります。

これにより、ガイドブックに載っていない情報を得ることができます。

例えば、地元の人だけが知っているおいしいレストランや、隠れた絶景スポットを教えてもらうことができます。

また、様々な交渉がしやすくなるという利点もあります。

たとえば、観光地で販売されている衣服や民芸品は通常、観光客向けに高い価格設定がされています。

しかし、インドネシア語が話せれば、これらの商品の価格交渉が容易になり、よりお得な価格で購入できる可能性も高まります。

それから、小規模な旅行会社と交渉して、自分が指定したルートで島々を巡るように船を手配してもらうことも可能です。

値段の交渉も含め、自分だけのカスタマイズされたツアーを実現することができます。

実際にこの方法で、より低いコストで自分に合った観光を楽しむことができました。

このように、インドネシア語を話せると、一般の観光とは異なる、より個性的で充実した旅行体験ができるようになります。

3. インドネシア人の友人がめちゃくちゃ増える

アチェの子供たち
Photo by Pixabay

インドネシア語を学ぶことで、インドネシア人の友人がめちゃくちゃ増えます。

まず日本人の中でインドネシア語を話せる人が少ないため、初対面でのインパクトが大きいです。

インドネシア語でコミュニケーションが取れると、珍しがられることが多く、すぐに親しくなります。

実際に出逢って間もないのに、インドネシア人の家に招かれて家庭料理をご馳走になるなど、暖かく迎えられた経験が何回かあります。

また、地元のインドネシア系企業で働く人たちとも、比較的簡単に関係を構築することができます。

「インドネシア語が話せる日本人」という点が強いインパクトを与え、インドネシアから離れて4年が経過しても、未だに覚えてもらっていることがあります。

こうした繋がりは、次のビジネスの機会にも繋がっています。

さらに、多くの友人ができることで、さまざまな文化に触れる機会も増えます。

前述した通り、インドネシアには300から400もの民族が存在しており、知り合った友人がジャワ人だと思っていたら、実はスンダ人だったりすることもあります。

このような形で、多様な民族や文化に触れ合うことができ、日本では経験できない貴重な体験を得ることも可能になります。

4. インドネシアの周辺諸国の人たちとも関係構築が可能

Photo by Pixabay

インドネシア語を話せると、その周辺諸国の友人も増えます。

前述したように、インドネシア語はマレー語から派生しており、多くの類似点を持っています。

現地の人々によると、語彙の約60~70%がマレー語と共通しているそうです。

マレー語話者が多い国としては、主にマレーシア、シンガポール、ブルネイが挙げられます。

これらの国でマレー語を話す人々とは、インドネシア語でコミュニケーションを取ることで、より親しみを感じてもらえることがあります。

また、かつてインドネシア領であった東ティモールでは、インドネシア語を話す人々が沢山います。

このように、インドネシア語を話せると、インドネシアの周辺国でもその言語スキルを活用できるチャンスが広がります。

5. 他のオーストロネシア語族に属す言語を学ぶきっかけになる

Photo by AC

マニアックな話ですが、インドネシア語を学ぶことは、他のオーストロネシア語族の言語を学ぶきっかけになり得ます。

インドネシア語という言語は、世界で二番目に大きな言語グループである「オーストロネシア語族」という言語グループに属しています。

この言語グループは、東南アジア、オセアニア、マダガスカルなど広範な地域で話されており、1,200以上もの言語が含まれています。

例えば、マレーシアの公用語であるマレー語、フィリピンのタガログ語、ベトナムのチャム語、マダガスカルのマラガシ、ポリネシアのハワイ語、マオリ語、サモア語、トンガ語などが挙げられます。

これらオーストロネシア語族に属する言語は、文法や語彙において類似性を持っています。

例として、「5」という数字を挙げてみましょう。

インドネシア語では「lima(リマ)」と言います。

マレー語も「lima」です。

タガログ語も「lima」です。

ベトナムのチャム語も「lima」です。

ハワイ語も「lima」です。

フィジー語も「lima」です。

台湾のアミ語も「lima」です。

アフリカ マダガスカルのマラガシは「limi」です。

このように同様の表現が使われています。

これは、言語学的に非常に興味深い点です。

もちろん、これらの言語が全て似ているわけではありませんが、言語間の類似性を探ることは、語学が好きな方や知識欲のある人にとっては魅力的な探検になります。

言語間の類似性を見つけた時は、なぜかとてもうれしくなります。

こういった知識欲を満たすメリットもあるのではと思います。

インドネシア語を習得して、自分の可能性を拡げる

Photo by Pexels

この記事を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

インドネシア語の学習メリットを紹介しましたが、皆さんにとって新しい発見があれば幸いです。

インドネシア語はよく、学びやすい言語と言われます。

中国語やベトナム語のような発音の複雑さはなく、タイ語やアラビア語と異なりアルファベットを使用しているので、新しい文字を学ぶ必要もありません。

また、スペイン語やフランス語のような男性名詞、女性名詞といった区別も存在しません。

ただし、インドネシア語独自の難しさもあります。

特に接頭辞や接尾辞、口語と文語で使用される単語の違い、地域による発音の差異など、注意が必要な点も存在します。

それでも全体的には、他言語に比べて学びやすい言語だと思います。

勉強を始める前に構えることなく、気軽に取り組むことができるでしょう。

もしインドネシアに興味があれば、ぜひインドネシア語の学習に挑戦してみてください。

新たな可能性を発見できることを、心より願っております。

 

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名古屋で無農薬野菜を使った北インドカレーを食べる - ミシュラナ(MISHRANA)

「ああ、久しぶりにインドカレーが食べたいな・・・」

そんな瞬間、皆さんにもありませんか?

昨日の私はそんな気分でした。

たまに無性にインドカレーが恋しくなるんですよね。

おいしいインドカレー屋さんを探していたら、北インドのカレーを楽しめるお店が近くにあることを知りました。

そのお店の名前は、「ミシュラナ(MISHRANA)」。

地下鉄桜通線と鶴舞線の御器所駅からほど近いとのこと。

それでは、さっそく行ってみたいと思います!

ミシュラナさんの位置
桜通線 御器所駅 7番出口を出てすぐのところにあります

ミシュラナさんはアクセスが便利な場所にあります。

地下鉄 桜通線 御器所駅の7番出口を出てすぐのところにあります。

昭和区役所にも近いのですね。

7番出口を出てから、歩いて1分ほどでミシュラナさんを発見しました!

インドの旗が見えてきました!
分かりやすいですね~

ミシュラナさんに到着し、さっそく店内に入ってみました。

引き戸を開けると、「はい、いらっしゃい!」と元気な声が聞こえてきます。

その声の主は、インド北部デリー出身の店主、クリシュナ・クマールさんでした。

店内に入ると、すぐにクリシュナさんのフレンドリーな雰囲気が伝わってきました。

すぐに打ち解け、色々なお話を伺うことができました。

クリシュナさんのご出身であるデリーの位置

このお店はデリー出身のクリシュナさんと、同じくデリー出身のシェフによって運営されています。

完全にインド人の方による、本格的なインド料理を提供するお店です。

「MISHRANA(ミシュラナ)」という店名は、サンスクリット語に由来しており、「混ぜる」という意味だそうです。

こちらのお店は、日本で採れた新鮮な野菜とインドカレーを融合させた料理を提供し、店名のコンセプトを反映させています。

2023年5月末に開店したばかりで、非常に新しいお店です。

クリシュナさんの許可を得て、店内の様子を撮影することができました。

店内の様子。
BGMにノリの良いボリウッドの音楽が流れています

インドのスパイスやスナック類も販売しています

インドの地図も掲げられていますね

このお店の魅力の一つは、店主との距離が近く、コミュニケーションを取りやすいことです。

ご飯を待っている間、最近のインドの状況やインド料理の文化について話ができ、普段から抱いていた疑問を解消できた上、新しい発見もあり、学びの多い時間を過ごせました。

なお今回、ランチタイムにミシュラナさんを訪問しました。

ランチメニューは以下のようになっています。

ランチのメニューです

今回私は、1,500円(税込み)の「ミシュラナ スペシャル プレート」を注文しました。

店主のクリシュナさんによると、日進市に農園を持っているそうで、レストランで提供する野菜は自家栽培しているそうです。

それらの野菜は無農薬ということで、健康に良さそうですね!

さらに、チーズも自家製であると聞いて驚きました。

クリシュナさんから話を伺い、食材に対する強いこだわりを感じ取ることができました。

「日本で取れる最もおいしい旬の食材を使って、皆さんに喜んでいただけるインド料理を提供したい」という彼の熱意は、非常に印象的でした。

農園の写真も見せてくれました。
無農薬野菜を自家栽培しています

店主のクリシュナさんと会話を楽しんでいると、前菜のサラダ、ドリンクのマンゴーラッシー、メインのカレーたちが続々と到着しました!

サラダ、マンゴーラッシー、そしてメインのカレーが到着!!!

サラダですが、自家農園で採れた野菜(レタス、アボカド、玉ねぎ)、自家製のチーズ(パニール)、ハーブとパパドが盛り付けられています。

レタスとアボカドを一口食べると、その新鮮さはすぐにわかりました。

レタスのシャキシャキとした食感と、市販のものに比べてクリーミーなアボカドの風味が印象的でした。

野菜本来の味が非常に際立っており、化学肥料や農薬を使用していないことが、明らかな味の違いとして感じられました。

またコリアンダーを含むハーブと合わせて食べることで、野菜の美味しさがさらに引き立ちました。

自家農園で栽培した野菜、自家製のチーズとハーブが盛り付けられている。
写真奥のカリッと香ばしそうにカールしているのがパパド

パパドですが、食べ方はいろいろあります。

そのまま何もつけずに食べる方もいれば、サラダの野菜と一緒に食べる人もいます。

またカレーのルーと一緒に食べる方もいらっしゃいます。

自家製のハーブ。
サラダとの相性がばっちり

そして、下の写真がメインのカレーです。

写真奥に見える丸いパンは、「チャパティ(Chapati)」と呼ばれるインドの主食の一つです。

そのチャパティの手前にあるのは「ダル(Dal)」と呼ばれる、豆を煮込んだカレーです。

この料理は「ダール(Daal)」と言われたりもします。

カレーのルーというよりは、スープに近い一品です。

個人的には、お米と合わせて食べるとより美味しく感じます。

メインのカレーたち。
この器はインドの雰囲気を醸し出していて、とても良いですね。

料理について説明しますと、右から「サブジ(Sabji)」と呼ばれるじゃがいもの野菜炒め、チキンカレー、焼きナスのカレー、そして「ライタ(Raita)」というきゅうりを使った料理が並んでいます。

これがサブジですね。
安定した美味しさです

カレーの辛さに関しては、注文時に店主に伝えれば、適宜調整してくれます。

店主によれば、他のインド料理店で提供されるカレーは通常インド人にとって甘く感じるとのこと。

私はそれらよりも、少し辛めに調整してもらいました。

店主さんからの情報によると、最近のインドでは健康面を考えて、スパイスの量を控えめにする傾向があるようです。

焼きたてのチャパティはふっくらしている
今回店主の粋な計らいで、チャパティを追加してくれました!!

日本のインド料理店では、主食にナンが提供されることが一般的ですが、インドではナンよりもチャパティが日常的な主食としてよく食べられます。

私がインドの北部、西部、南部地方、そして西ベンガル地区で旅をしたりホームステイをした経験から言うと、ナンが振る舞われたことは一度もなく、チャパティや米、時には麺類が主食として提供されました。

焼きたてのチャパティは、上の写真のようにふっくらとしていて、外側は少し焦げ色がついています。

これが冷めると、薄くて平たくなります。

ナンは小麦粉を使い、チャパティは全粒粉を使って作られます。

チャパティについては、店主から特に焼きナスのカレーと合わせて最初に食べてみることを推奨されました。

焼きナスのカレーと一緒に・・・

では、いただきます・・・

おお!おいしい!!😊😊

一口噛むと、まず焼きナスの香ばしい香りが感じられ、次いで微かな生姜の香りが顔を出します。

その後、スパイスのピリッとした風味が徐々に口の中に広がっていきます。

外側は香ばしくも、食感が柔らかくもっちりとしたチャパティがカレーの味と絶妙に合わさり、しっかりと濃厚な味わいを楽しむことができます。

この料理はインド各地で若干呼び名が異なることがありますが、一般的には「ベイガン・バルタ(Baingan bharta)」と呼ばれています。

店主の話によると、インドの人は日本に来ると日本の焼きナスが好きになるそうです。

というのも、インドにもこのように焼きナス料理があるからなんですね。

お次はチキンカレー

続いて、チキンカレーをいただきます・・・

あ~、これまたおいしい!!!😋😋

チキンはよく煮込まれており、カレーのルーがしっかり染み込んで非常に柔らかいのを感じます。

ルー自体も絶品です。

おそらくトマトと玉ねぎを使っているのかな?

これらの具材は丁寧に炒められており、自然な甘みが引き出されています。

スパイスの効いた風味もあるものの、野菜がその辛さを優しく和らげ、最後にはまろやかな味に落ち着きます。

そしてこのルーがですね、もちもちとしたチャパティによく染み込むんです!

チャパティはカレーのルーを吸い上げ、さらに柔らかく、風味豊かになります。

この食感と味わいが、食べる楽しみを一層増してくれます。

店主は、チキンの品質にもこだわりを持っており、さらなるグレードアップを目指しているそうです。

カレーのルーをある程度残しながらチャパティを楽しんだ後、バスマティライスが運ばれてきました。

バスマティライス

この長細く、パラっとした感じが良いですね

バスマティライスは、インドやパキスタンを含むインド亜大陸原産のインディカ種の米です。

炊き上がりがふっくらとして粒立ちが良く、特有の芳香があることが特徴です。

店主の勧めで、まずはダルと一緒にいただくことにしました。

ダルとともに、いただきます!

おいしい!!!😊😊😊

一口食べた瞬間、豆のなめらかな舌触りと穏やかなスパイスの風味が広がりました。

ただし辛さは控えめでして、優しい味わいが心地よいです。

バスマティライスのふっくらとした粒立ちが、ダルのクリーミーなテクスチャーと絶妙に調和していました。

米粒の一つ一つが、ダルのスープを吸収して、香ばしい風味と共に口の中で優しくほどける感覚を味わいました。

野菜やスパイスの自然の旨味がリッチな味わいを添え、バスマティライスとの組み合わせが、これ以上ないほどに相性が良かったです。

そして次に、焼きナスカレーと一緒にいただきます!

今度は、焼きナスカレーと一緒に食べます

これも美味しすぎる!!!👍👍👍

改めて思ったのですが、バスマティライスはふんわりと軽やかでありながら、それぞれの粒がしっかりと存在感を示しますね。

焼きナスカレーの濃厚さが、この軽やかなバスマティライスによってバランス良く引き立てられる感じがします。

焼きナスとスパイスの風味が、ライスの粒々とした食感を通じて、より明確に感じられるのです。

チャパティと焼きナスカレーの組み合わせも堪能しましたが、同じ焼きナスのカレーを使用していても、伴う主食の性質によって全く異なる味わいと食感を楽しむことができますね。

チャパティはカレーとの一体感を、バスマティライスはカレーの風味を際立たせる役割を果たしているような感覚がして、どちらも焼きナスのカレーとの相性が抜群でした。

 

お腹いっぱい!ごちそうさまでした~😋😋😋

胃も満たされ、満足感でいっぱいです。

最後には、インドのミルクティー「チャイ(Chai)」をいただきました。

甘さは店主に相談すれば調整してもらえます。

私は甘さを控えめにしてもらいました。

インドのミルクティー「チャイ」。
久々に飲みました

インドのチャイを久しぶりに飲んで、体が温まり、心が安らぎました。

このチャイ特有の甘い香りは、かつてインドへ旅行した時の思い出を、色濃く蘇らせてくれます。

 

いや~もう満足ですよ。

しかし、これだけ堪能して1,500円(税込み)ってめちゃくちゃコスパ良くないですか!!??

店主によると、金曜日と土曜日のランチタイムにはビリヤニが楽しめるそうです。

また、今月からはディナーメニューもスタートしたとのこと。

こちらはディナー限定メニューになります。

ディナーのメニュー

お会計後、店主は「今朝、この看板をつけたんです」と言いながら、お店の入口に新しく設置されたメニュー看板を見せてくれました。

予約をすれば、下の写真にある「インド風おせち料理」のような特別な料理も用意できるそうです。

どのメニューも美味しそうですね!

店主のクリシュナさんは日本に来て10年になり、日本語がとても流暢です。

食事中に私が持った疑問について尋ねたところ、使用されている材料やインドの家庭での食べ方、食べる順番についても、非常に丁寧に説明してくれました。

その詳しい説明のおかげで、食文化についての理解を深めることができ、とても有意義な時間を過ごせました。

名古屋で北インドのカレーを食べられたい方、
旬の野菜を使ったインドカレーに興味のある方、
新しいグルメを探されている方、
ミシュラナさんはおススメですよ!

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

自家栽培の新鮮な野菜と絶妙にスパイスを効かせたインドカレーのマッチングに感激しました。

まるで日本とインドの美味しい調和のようです。

そしてランチを食べ、少し時間が経ってからこのブログ記事を書いているのですが、胃が全然もたれません(胃が重たくならないのです)。

店主によると、変な油やバターを使用せず素材そのもの味を引き出すように調理を工夫しているとのこと。

その結果、食後の不快感がなく、非常にヘルシーな食事でした!

日本の旬の食材を取り入れつつ、北インドの味わいをしっかりと堪能できるミシュラナさんは、グルメな方にもおすすめの場所です。

興味を持たれた方は、ぜひ一度足を運んでみてください!

 

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アジアの蝶が舞う|マレーシア キャメロンハイランドのバタフライガーデン

先日マレーシアを訪れた際、キャメロンハイランドに立ち寄りました。

キャメロンハイランドとはマレーシアの高原地帯でして、標高が1,000メートルから1,500メートル程度に位置するため、マレーシアの他の地域に比べて涼しく過ごしやすい気候が特徴です。

この地域は、1885年にイギリスの地質学者であるウィリアム・キャメロンによって測量され、その後、避暑地として開発されました。

ティー・プランテーションが広がる緑豊かな景観、農園でのストロベリー狩り、蝶や花、昆虫などの自然が楽しめるため、観光地としても人気があります。

キャメロンハイランドの位置

週末は観光客で道路が混雑するため、平日にキャメロンハイランドを訪問しました。

クアラルンプールからは渋滞もなく、2時間ほどでスムーズに到着できました。

キャメロンハイランド訪問の主な目的は、ボーティーとバーラットティーの紅茶農園を見ることでしたが、道中にバタフライガーデンがありまして、そこへも立ち寄りました。

昆虫に興味を持つ私にとって、自然豊かなキャメロンハイランドは非常に魅力的な場所です。

バタフライガーデンでは、訪れるたびに様々な美しい蝶と出会え、観ていると心が和みます。

私にとって、紅茶農園の訪問はもちろん、バタフライガーデンも見逃せないスポットのひとつなのです。

今回この記事では、私が最近バタフライガーデンに訪れた際に撮影した、アジアに生息する蝶をいくつか紹介しようと思います。

バタフライガーデンについて

今回訪問したのは「タマン ラマ ラマ バタフライガーデン(Taman Rama Rama Butterfly Garden)」というバタフライガーデン。

チケットカウンター

これがチケットカウンターですね。

大人10リンギット、子供5リンギットで入園できます。

今のレートだと1リンギット=31円くらいですから、大人310円、子供155円くらいですね。

・・・って・・・ん???

何かのキャラに似ているような・・・

チケットカウンターの看板をよく見ると、どこかで見たことのあるキャラクターが描かれている。

これは大丈夫なのか???

まあ・・・いいか・・・

さて、このバタフライガーデンについて少し説明しますと、訪問者はガラス張りの温室内を歩きながら、自由に飛び回る蝶々を観察することができます。

温室内には、蝶々がその自然の生息地に近い環境で生きられるように設計されておりまして、種々の熱帯植物が生えています。

植物は蝶の餌としての役割を果たしているため、植物と蝶の共生関係を直接見ることができ勉強になります。

それでは、蝶々を紹介していきます。

1. Red Lacewing(アカクサカゲロウ蝶)

まずは英語名:Red Lacewing、日本語名:アカクサカゲロウ蝶です。

正式な学名は「Cethosia biblis」といいまして、主にインド中東部、中国南西部、インドネシア、オセアニアに生息している蝶です。

翅(はね)が、鮮やかなオレンジ・レッドで、黒い輪郭に白い模様が特徴的です。

この目を引く色合いは、「私を食べても美味しくないぞ!」と、捕食者に向けた警告信号として機能しているそうです。

別のアングルからも撮影しました。

洗練されたデザインだ・・・

翅の裏側は、明るい赤から褐色までのグラデーションに、黒と白の模様が織り交ぜられています。

この複雑な模様はカモフラージュに効果的らしく、蝶の輪郭を自然背景に紛れさせるのに役立つそうです。

メスはオスほど色鮮やかではなく、通常、より抑えられた灰色がかった茶色の翅を持つそうですね。

2. Malay Cruiser(ヒメコウモリタテハ)

こちらの蝶は英語名:Malay Cruiser、日本語名:ヒメコウモリタテハと呼ばれます。

正式な学名は「Vindula dejone」と言います。

主に東南アジアに広く生息する蝶です。

オスの翅は一般的に鮮やかなオレンジ色をベースに、黒い輪郭線や斑点があり、非常に魅力的です。

メスは通常、オスよりも色が暗く、翅は茶色がかったトーンで、黒い斑点やストライプが特徴的です。

その結果、オス・メスによって異なる外見を持つことが特徴的です。

今回撮影できなかったのですが、翅の裏面はまるで枯れた葉っぱみたいなデザインになっていまして、迷彩効果を発揮します。

これにより、静止しているときに枯れた葉っぱに溶け込み、捕食者から身を守ることができます。

3. Rajah Brooke's birdwing(アカエリトリバネアゲハ)

続いては英語名:Rajah Brooke's birdwing、日本語名:アカエリトリバネアゲハと呼ばれる蝶です。

正式な学名はTrogonoptera brookianaと言います。

この蝶は特にマレーシアで見ることができまして、国のシンボル(国蝶)にも指定されいる美しい蝶です。

学名に"brook"と入っているのですが、これは19世紀のサラワク王国の初代王、ジェームス・ブルック(James Brooke)という英国人にちなんで名付けられた経緯があります。

Sir James Brooke
著作者:Herbert Watkins, パブリックドメイン

File:Sir-James-Brooke.jpg - Wikimedia Commons

サイズ的に、けっこう大きめの蝶です。

オスの蝶は、鮮やかな緑色の帯が特徴の黒い翅を持っています。

この緑色の部分は光によって様々な角度から見ると違う色に輝き、その美しさは多くの人を魅了します。

メスはよりサイズが大きく、色は一般に褪せており、オスほど鮮やかな色の翅は持ちませんが、そのサイズと翅のパターンで識別されます。

森林伐採や生息地の破壊などによって、その生息数が減少していると言われており、ワシントン条約で保護されています。

4. Blue Triangle(アオスジアゲハ)

お次は英語名:Blue Triangle、日本語名:アオスジアゲハと呼ばれる蝶です。

正式な学名はGraphium sarpedonと言います。

この蝶は、アジア、オセアニアと広く分布しており、その名前の由来は翅の形と色から来ています。

翅は鮮やかな青緑色の帯で飾られ、黒い背景に対して映える洗練された模様を持ちます。

飛び方が特徴的でして、花から花へと素早く移動します。敏捷性が優れていますね。

複眼がよく発達しているそうで、蝶の中では最も多くの色を識別できると言われています。

5. Blue Tiger(ウスコモンアサギマダラ)

この蝶は英語名:Blue Tiger、日本名:ウスコモンアサギマダラと呼ばれています。

正式な学名はTirumala limniaceと言います。

この種は南アジアから東南アジアにかけて広く分布しており、特にインドやスリランカなどの南アジアではよく見られる種とされています。

Blue Tigerと言われるように、青い斑点がトラの皮のような縞模様を想起させる美しい外見をしているのが特徴的です。

この蝶は移動性が高く、特定の季節に大量発生して群れを形成し、長距離を移動することで知られています(なので迷蝶と言われたりもする)。

翅の裏側はこんな感じです。

美しい・・・

6. Blue Glassy Tiger(ウスイロアサギマダラ)

最後に紹介するのが英語名:Blue Glassy Tiger、日本語名:ウスイロアサギマダラと呼ばれる蝶です。

正式な学名はIdeopsis vulgarisと言います。

東南アジアに広く分布しています。

見た目が非常に美しく、黒い地色に多くの青灰色の斑点が特徴的です。

撮影するのに結構時間を要しました。

別のアングルからもどうぞ。

自然が創造した魅力的なデザイン

バタフライガーデンは自然のアトリエだった

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

私にとってバタフライガーデンでの時間は、まるで自然の手による絵画の数々を鑑賞しているようでした。

日常の忙しさを忘れ、ただ静かに蝶が舞う様子を眺めることは、心に平穏と豊かさをもたらしてくれました。

Red Lacewingの鮮烈なオレンジ・レッド、Blue Triangleの澄んだ青をはじめ、蝶々のそれぞれが持つ独自の模様が、自然界の驚くべき創造性を映し出していました。

このバタフライガーデンでは、蝶の美しさを間近で観ることはもちろん、彼らの生態に関するストーリーを学ぶこともできます。

それは、ただの鑑賞以上の価値があると私は感じています。

自然の美しさをもっと近くで感じたい、またはアジアの蝶についての知識を深めたいとお考えの方には、キャメロンハイランドのバタフライガーデンを訪れることを勧めします。

もし可能であれば、平日の静けさの中で訪れてみてください(観光客がいないので)。

人の少ない静かな環境は、蝶たちとの距離をより一層縮め、その魅力を存分に感じることができると思います。

このブログを通して、また新たな発見があった際には共有できることを楽しみにしています。

 

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