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黄家の物語 - 知られざるインドネシアの華人富豪

インドネシア マラン(Malang)にあった建源の製糖工場
著作者:不明, CC BY-SA 3.0 DEED

File:COLLECTIE TROPENMUSEUM Suikerfabriek Krebet Malang TMnr 10011672.jpg - Wikimedia Commons

過去にタイの包装機械市場に携わった際に「建源グループ」というタイの会社を耳にしたことがある。

この会社をご存知の方はいらっしゃるだろうか?

包装・印刷機器業界に詳しい人なら、この名前を聞いたことがあるかもしれない。

この会社は主に欧州製の包装機や印刷機をタイはもちろん、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどに供給している機械商社だ。

もともとは米とか砂糖、タピオカ粉、チーク材やゴムなどを海外に輸出していたらしい。

その後、レジ機、両替機、さらには二輪車まで取り扱い、現在は包装機や印刷機に注力するようになった。

また、不動産事業も手がけている。

この会社、調べていくと元はインドネシアに本拠を置く企業だったようである。

19世紀半ばにインドネシアのスマラン(Semarang)で創業した、あるインドネシアの華人が経営する貿易会社だった。

当時は「インドネシア」ではなく、「オランダ領東インド」と呼ばれていた時代だ。

20世紀初頭には、東南アジアで最大の複合企業(コングロマリット)にまで成長したらしい。

当時、その複合企業は「オイ・チョンハム・コンツェルン(Oei Tiong Ham Concern)」と呼ばれていた。

建源はその子会社の一つに過ぎなかった。

このコンツェルンを率いたオイ・チョンハム、中国名「黃仲涵」は、東南アジアで「アジアのロックフェラー」と称されるほどの影響力を持っていた。

シンガポールのBukit Timah地区には彼の名を冠した通りが存在する。

この人物は一体、何者なのだろうか。

調べていくうちに、これまで知らなかった「黄家(Oei Family)」の壮大な物語に遭遇することになる。

このブログ記事では、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてアジアに大きな影響を与えた「黄家(Oei Family)」について独自に調べたことを記載する。

黄志信(Oei Tjie Sien)について

黄志信(Oei Tjie Sien)
黄志信图片_百度百科

生い立ち - 白手起家から「建源」の創業へ

黄志信が生まれた、福建省泉州市同安県の位置

黄志信(Oei Tjie Sien)は1835年に、清王朝時代の中国、福建省泉州市同安県で生まれた。

彼は比較的裕福な家庭で育ち、私塾で教育を受ける。

1850年、彼は「小刀会(しょうとうかい)」という秘密結社に加わり、その後太平天国の乱に参加したとされる。

この乱は清王朝に対するものだったが、政府の弾圧に耐えられず、1858年、23歳の時に中国福建省の厦門(アモイ)から船でオランダ領東インド(現在のインドネシア)ジャワ島のスマランに逃れる。

当時彼は既に結婚していたが、妻を中国に残すことになる。

インドネシア スマラン(Semarang)の位置
ジャワ島の中部にある

スマランに移住後、黄志信は行商人として生計を立て始めた。

彼は中国から磁器製の皿や茶碗を仕入れ、米を小袋に入れて家々を回り販売していた。

その後、彼は地元生まれの中産階級の華人女性と結婚することになる。

資金を蓄えた黄志信は、1863年に「建源公司(Kian Gwan)」という貿易会社をスマランに設立し、オランダ政府に正式に登録した。

この会社は、中国からハーブ、お香、茶、絹を輸入し、インドネシアから米、砂糖、タバコ、ガンビール(阿仙薬)などを輸出していたらしい。

輸出先は徐々に拡大し、タイやベトナムにも輸出するようになった。

黄志信はビジネスを更に拡大し続けるとともに、上述した華人女性との間に子供をもうける。

その子こそ、後に「アジアのロックフェラー」と言われる黄仲涵(Oei Tiong Ham)であった。

1893年、黄志信はビジネス界から引退し、息子の黃仲涵に事業を継がせた。

尚、黄志信は稼いだお金の一部を定期的に清の満州政府に送金しており、その結果、後年には清政府から恩赦を受け、中国への帰国が可能になっていたそうだ。

晩年はスマランで所有していた土地の管理と、蓮の栽培に専念していた。

黄志信は1900年に亡くなり、その生涯に幕を閉じた。

黄志信と三保洞

黄志信は慈善活動にも熱心であったそうで、地元スマランでは以下のようなエピソードが語り継がれている。

スマランに三保洞(サン・ポー・コン)という寺院がある。

この寺院は明朝時代の航海士、鄭和(ていわ)によって設立されたと言われている。

三保洞(サン・ポー・コン)
著作者:Yunita Lestari, CC BY-SA 3.0

File:Sam Po Kong Temple Semarang Indonesia.jpg - Wikimedia Commons

スマランの三保洞に設置されていいる、鄭和の像。
鄭和は中国・雲南省の出身でムスリムであった。
著作者:22Kartika, CC BY-SA 3.0

File:Zheng He statue (cropped).jpg - Wikimedia Commons

元々この寺院はムスリムのために建てられた寺院であったが、現在は仏教の活動にも利用され、様々な民族の人たちが訪れる。

地元コミュニティにとって非常に由緒正しい場所なのである。

さてこの寺院であるが、黄志信が存命の時代、ヨハネスというユダヤ人の地主が所有していた。

当時、地元の人たちが三保洞で祈る際には彼に料金を支払う必要があり、そのため地元民の反感を買っていた。

これを知った黄志信はこの寺院をヨハネスから購入し、一般に無料で公開するようにした。

これにより、彼は地元コミュニティから非常に尊敬され、慕われる存在となった。

彼のこの行動は、地域社会への貢献として今日も高く評価されている。

黄志信の謎

さてここまで黄志信の生い立ちなどを見てきたが、彼の生涯には未だ謎が多い。

彼はインドネシアに着の身着のまま渡り、オランダ植民地政府との関係を築き、富豪へと上り詰めた。

当時、オランダ植民地政府とビジネスで密接に関係していたのは、15〜16世紀にインドネシアに渡った華人の末裔で、上流階級に属するカバン・アタス(Cabang Atas)が一般的だったと言われる。

黄志信はカバン・アタスにも属さず、人脈もない中で、中産階級の華人と結婚し、富と地位を築いた点で評価されている。

しかしそもそも、彼がどうやって行商人になれたのかは謎である。

インドネシアに渡った当初、ある華人の家に住み込み、そこでポーター(荷物運び)として働いていたとの話もある。

その家の主人が彼を気に入り、娘との結婚を許し、資金を提供して行商を始めさせたという噂もあるが、確証はない。

もっというと、彼がなぜインドネシアを目指したのかも不明だ。

これは私の勝手な推測に過ぎないが、彼が所属していた「小刀会」が何らか関わっていいないだろうか。

小刀会は「天地会(てんちかい)」の分枝と言われており、「天地会」は「洪門(ホンメン)」とも呼ばれる。

ちなみに、欧米では天地会=洪門を英語で「Chinese Freemasons(中国のフリーメイソン)」とも呼んでいる。

彼はこの組織の助けや伝手を借りたりしていないだろうか?

まあ・・・素人の勝手な憶測ですが・・・。

黄仲涵(Oei Tiong Ham)について

黃仲涵(Oei Tiong Ham)
著作者:不明、パブリックドメイン

File:Oei Tiong Ham.jpg - Wikimedia Commons

生い立ち - 「砂糖王」、そして「アジアのロックフェラー」へ

黄仲涵(Oei Tiong Ham)は、1866年にインドネシアのスマランで生まれた。

当初、彼は父親の貿易会社「建源(Kian Gwan)」でビジネスに従事していたが、更なる事業拡大のため新たな商材としてアヘンに着目した。

19世紀末、アヘン市場での支配を目指し、1889年に老舗のアヘン取引会社が破産したことを機に、オランダ植民地政府との取引契約を獲得する。

1893年、黄仲涵は正式に父から建源を引き継ぎ、事業の多様化を図り、東南アジアで最大の企業の一つへと成長させていった。

彼は中部ジャワのアヘン市場を掌握した後、砂糖の市場も独占していった。

黄仲涵は華人経営のサトウキビ工場に融資を行い、1880年代の経済危機で返済不能に陥った工場から5つの砂糖工場を取得する。

これにより砂糖は会社の主力商品となり、黄仲涵は「砂糖王」という異名を得るに至る。

1890年代から1920年代にかけて、「建源」は急速な成長と事業の多様化を遂げ、ロンドン、アムステルダム、シンガポール、バンコク、ニューヨークに支店を設立し、銀行業、蒸気船事業、不動産開発、新聞事業、大規模な卸売ビジネスを展開していく。

黄仲涵の個人資産は当時、JPモルガンなどのアメリカの金融王や実業家に匹敵するレベルに達したと言われている。

このようにして黃仲涵は父・黄志信の会社を大きく発展させ、20世紀初頭の東南アジアで最大の複合企業「Oei Tiong Ham Concern(オイ・チョンハム・コンツェルン)」に成長させた。

黄仲涵はこのように豊かな栄華を誇ったが、1920年には故郷のスマランを離れ、現在のシンガポールに移住した。

彼が移住した理由の一つとして、オランダ植民地の相続法と重税制度への不満があり、これを避けるためだったとされている。

当時、オランダ植民地政府の法律では、インドネシアの国民は国外到着後3ヶ月以内にオランダ領事館へ報告する義務があり、報告しなかった場合には市民権が剥奪される規定があったが、黄仲涵はこの報告を行わなかったそうだ。

ただ彼が移住する8年前の1912年には、シンガポールのある海運会社を買収し、この地域に支社も既に設立していた。

この事業展開により、シンガポールは黃仲涵にとって重要な拠点となりつつあった。

ちなみに、この海運会社には、後にシンガポール初代首相となるリー・クアンユー(Lee Kuan Yew)の祖父、リー・フンロン(Lee Hoon Leong)が働いていたことでも知られている。

しかし、1924年に黄仲涵は8人の妻と26人の「正式な」子供を残し、突如57歳で亡くなる。

彼の遺体は、故郷のスマランに戻り、父・黄志信の墓の隣に埋葬されていると言われている。

オイ・チョンハム・コンツェルンのその後

黄仲涵のビジネスは彼の死後、9人の息子たちに継承された。

しかしながら、1949年のインドネシア共和国の独立に伴い、オイ・チョンハム・コンツェルンは大きな転換期を迎えることとなる。

インドネシアのハッタ副大統領とオランダのユリアナ女王(オランダ ハーグにて)
女王がオランダからインドネシアへの主権の移譲に署名している様子。
インドネシアの独立戦争は1945年~1949年に勃発した。
著作者:AnsyahF, パブリックドメイン

File:Indonesian National Revolution montage.jpg - Wikimedia Commons

1961年、インドネシア政府の経済犯罪裁判所はオイ・チョンハム・コンツェルンがインドネシア国内に持つ全資産の押収と国有化を決定。

これには砂糖プランテーションや工場も含まれていた。

その結果、オイ・チョンハム・コンツェルンは徐々に解体。

1964年、インドネシア政府はこれらの資産を管理するためPT Rajawali Nusantara Indonesiaという持株会社を設立。

現在、この会社は砂糖やその他農産物、畜産、水産など幅広い事業を展開し、インドネシアの国営企業として重要な位置を占めている。

一方、インドネシア国外にあった建源の海外オフィスは独立した会社となり、現在は黄仲涵の子息たちが運営している。

黄仲涵の謎

ここまで黄仲涵の生い立ちなどを見てきた。

黄仲涵の生涯も、彼の父と同様、いくつかの謎が残る。

彼が買収した海運会社に、後にシンガポールの初代首相となるリー・クアンユーの祖父が勤務していたのは、単なる偶然だろうか。

また彼は、57歳の若さで心臓発作により急逝したとされている。

本当に心臓発作で亡くなったのだろうか。

公表された彼の死因に対し、「彼の側室が毒殺したのでは?」と疑う人物がいた。

その人物とは黄仲涵の娘、黄恵蘭(Oei Hui-Lan)である。

黄蕙蘭(Oei Hui-Lan)について

黄蕙蘭(Oei Hui Lan)
著作者:Compton Collier, パブリックドメイン

File:HuiLanAndLionel1920.png - Wikimedia Commons

生い立ち - 黄蕙蘭から「マダム・ウェリントン・クー」へ

黄蕙蘭(Oei Hui Lan)は、1889年にインドネシア・スマランで生まれた。

黄仲涵(Oei Tiong Ham)の最初の妻の娘である。

彼女は西洋式の教育を受け、インドネシア語、英語、フランス語、オランダ語、北京語、福建語を流暢に話すことができる。

1909年にアイルランド系の英国領事館職員と結婚し、ロンドンで暮らしていたが、1920年に離婚した。

この頃、黄蕙蘭はロンドンの社交界で有名であり、流行の先端を行く人物として、TatlerやThe Times紙などの雑誌にも度々取り上げられていたそうだ。

その後、彼女は中華民国の外交官で政治家であるウェリントン・クー(Wellington Koo - 顧 維鈞)と再婚した。

ウェリントン・クー(Wellington Koo - 顧 維鈞)
袁世凱の英文秘書官をも務め、パリ講和会議の中華民国の代表でもあった。
著作者:Photoprint copyrighted by Underwood., パブリックドメイン

File:Vi-Hyuin Wellington Koo, Half length, standing, facing front, outdoors.jpg - Wikimedia Commons

クーは1926年から1927年にかけて中華民国の代理総統を務め、その間、黄蕙蘭はファーストレディーとしての役割を果たし、「マダム・ウェリントン・クー(Madam Wellington Koo)」としても知られるようになる。

なおウェリントン・クーは、1945年には国連の設立に際して中華民国の首席代表となる。

黄蕙蘭はこの間、パリとロンドンの社交界で再び注目を集めることとなるが、1958年にウェリントン・クーと離婚する。

理由としては、クーが夫人の派手な生活スタイルについていけなかったとのことである。

その後、彼女の人生には特に明るい話題はなく・・・。

1960年代には、前述したように、インドネシア政府によって父が築いたビジネス帝国が細分化され、また自身が手掛けた船舶や自転車のビジネスも成功せず、1975年に「No Feast Lasts Forever - 沒有不散的筵席(宴は永遠に続かない)」という自伝を出版するに至る。

彼女は1992年にアメリカ ニューヨークで亡くなる。享年103歳だった。

黄蕙蘭が残したもの

黄蕙蘭(Oei Hui Lan)の肖像画
Charles Julian Theodore Tharp 1921年作、シンガポール プラナカン博物館所蔵
著作者:Charles Julian Theodore Tharp, パブリックドメイン

File:Oei Hui-lan portrait painting.jpg - Wikimedia Commons

黄蕙蘭の遺産は彼女の独特なファッションセンスにある。

ヨーロッパ式のレースズボンと中国伝統服、翡翠ネックレスを組み合わせたスタイルはアジアとヨーロッパの融合として評価されている。

また現代のチャイナドレスのスタイルを形作ったのも、黄蕙蘭の貢献が大きいと言われている。

1920年代から40年代にかけて「VOGUE」誌のベストドレッサーリストに何度も登場し、東西の文化的な親善を促進させたと称賛された。

彼女の肖像画、写真、ドレスは、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリー、ニューヨークのメトロポリタン美術館、シンガポールのプラナカン博物館のコレクションに含まれている。

黄蕙蘭のスタイルと影響力は、ファッション界だけでなく、文化的な枠組みを超えた範囲で今もなお評価され続けている。

あとがき

今回、この家系を調べるに至ったきっかけは、黄蕙蘭(Oei Hui Lan)の写真に出会ったことだ。

アジアのアンティークコレクションを漁っている時に見つけた彼女の写真には「インドネシア人」と記されていた。

「誰だろう?」と思い調べたところ、彼女の父である黄仲涵(Oei Tiong Ham)に辿り着く。

黄仲涵について調べると、タイで聞いたことのある「建源」という単語に出くわし、懐かしさを感じた。

そしてこの建源を細かく調べた際に、黄仲涵の父・黄志信(Oei Tjie Sien)に至った。

今回調査するにあたり、いろいろ文献を読み込んだが、いかんせん日本語の情報が皆無に近かったので、英語、中国語(普通話)、インドネシア語をフルに駆使して調べた。

今回調べたことをすべて掲載することはできなかったが、ある程度、この家系に関する概略をまとめられたと思う。

調べている際に感じたのは、アジア史でそこそこ重要な家系だと思うのだが、なぜ日本であまり話題にならないのだろう?(それだけ需要がないからなのかな・・・)

ニッチながらも、そういった家系や歴史を紐解いて紹介するのが私の目標でもあるので、皆さんに少しでも興味をもって頂けたらアジア好きの私としては幸いです。

「この家系について知ってる!」など、何かコメント等ありましたら、お気軽にご連絡ください。

 

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*参考文献

kiangwan.com

Oei Tiong Ham: Miliarder di Hindia-Belanda dan Akhir Bisnisnya - Semua Halaman - National Geographic

Oei Tiong Ham, Konglomerat Pertama di Asia Tenggara di Abad 20 - BIBLIOTIKA

・Oei Tiong Ham Concern: The First Business Empire of Southeast Asia(1989), Yoshihira Kunio, https://kyoto-seas.org/pdf/27/2/270201.pdf

・太田康彦(2018), プラナカン 東南アジアを動かす謎の民, 日本経済新聞出版社

・山下清海(2023), 華僑・華人を知るための52章, 明石書店

Soong Mei-Ling, Oei Hui-Lan. Once upon a time | Vogue Italia

Gosipnya Sih...: Oei Tiong Ham

Oei Tiong Ham - Wikipedia

Oei Tjie Sien - Wikipedia

黄志信(建源公司创始人)_百度百科

Oei Hui-lan - Wikipedia

Madame Wellington Koo (née Hui-lan Oei) - Person - National Portrait Gallery

顧維鈞 - Wikipedia