いろいろな語学検定試験に挑みます

今年に入って初の投稿となります。
いろいろ諸事情が重なり、なかなか更新ができませんでした。。
さて突然なのですが、向こう5年かけて以下の語学資格を取得いたします。
- 英語
- 英検®1級
- TOEIC® 950以上
- 中国語(普通話)
- 中国語検定試験®1級
- HSK 6級(正答率8割以上)
- インドネシア語
- インドネシア語技能検定試験 A級
以上の目標を立て、5月1日より始動しております。
これらの検定試験を受けようと思った理由は、概ね以下の2点です。
- これらの言語についてより深い知識を習得したい
- これらの言語を教えられるようになりたい
とりあえず高みを目指す
まず私の性格的に、やり出したら徹底的にやらないと気が済まない性分で、より高みを目指したいと素直に思っています。
ちなみに各言語における現状のスペックは、以下の通りです。
英語
今までの社会人生活のおかげで、交渉や接待、また自身が携わった技術的な内容であれば問題なく意思疎通が可能です。
また自身が学生時代に専攻した分野であれば、アカデミックな会話も可能。
日常生活でも支障を来さない程度で運用が可能です。
ただし自身が経験したことのないことを英語で表現する際、事前に調べる必要があります。
例えば「ヘルニア」とか英語で何と言うか分からないし、宇宙に関するテーマなど話したことがないので、事前に予習する必要があります。
TOEIC®に関しては学生時代の2013年以降受験する機会がまったくなく、今後定期的に受験していこうかと思っております(当時TOEIC®のスコアは870でした)。
英検®に関しても小学校の時に取得した4級以降、受験をしたことがなく、こちらも英語の更なる知見を拡げる意味でも取り組んでいきたいと思っております。
現在は英会話の初心者の方を対象に英語を教えておりますが、将来的には英検®やTOEIC®も講座を作って困っている方のお役に立てたらなと考えております。
中国語(普通話)
仕事で東南アジアに駐在していた際に、中国語(普通話)をどうしても身につけたくなり、退職して中国本土に渡り、四川省や雲南省に滞在しておりました。
ただその後、仕事で特に活用する機会に恵まれず、ビジネス中国語はちょっと自信がない。
またアカデミックな内容については中国語(普通話)を使って話したことがないので、事前に予習が必要です。
日常的に現地の友人と会話する程度であれば、特に問題なく中国語(普通話)を活用して意思疎通ができるようにはなりました。
HSKは6級を保持しておりますが、正答率は7割程度ですので、8割以上にもっていきたいと考えております。
また中検®を受験したことがないので、こちらも挑戦してみたいという気持ちがあります。
HSK6級は中検®でいうと準1級~2級くらい相当だそうですので、とりあえず2級→準1級→1級の順で挑戦していきたいと考えております。
インドネシア語
インドネシアには仕事の関係で4年間駐在しておりました。
現地子会社には通訳がおらず、英語・日本語ができるインドネシア人スタッフが皆無だったため、嫌でもインドネシア語を勉強せざるを得ない環境でした。
私はメーカーの営業をしていたのですが、現地の会社さんにも頻繁に赴いて営業をしていたので、ビジネスにおけるインドネシア語はかなり鍛えられました。
交渉や接待、自分が携わった技術的な分野であれば十分インドネシア語で意思疎通が可能です。
アカデミックな内容に関しては、インドネシア語を使用して会話したことがないので、中国語と同様に予習が必要です。
日常的な会話においても特に問題なく運用が可能ですが、やはりこちらも自分が経験したことのない分野に関しては勉強が必要です。
ちなみに日本には「インドネシア語技能検定試験 」というインドネシア語の語学検定試験があります。
一番簡単な級はE級となり、最上級は特A級となります。
1月、7月と年に2回開催され、受験者数は約1,400~1,500人程度で多くはないです。
ただ、受験者数は年々増加傾向にあるそう。
とりあえずマイナー言語ですので英語や中国語に比べてテキストが少ないのと、検定試験に関する情報があまりないです。
E~C級までは以下写真のテキストで何とかカバーできるそうなのですが、B級からが試行錯誤らしいです。

この1冊でC級までの検定試験はなんとかなるとのこと。
ボロボロになるまで使い倒す
一応「日本インドネシア語検定協会」から過去問が購入できるそうなので、とりあえず傾向を掴んで対策を練るしかなさそうですね。
以前先生に私のインドネシア語のレベルを伺ったところ「B級レベル」とのことだったのですが、心配なのでC級からコンスタントにA級を目指していき、気力があれば特A級にも挑戦していきたいと考えております。
勉強時間の捻出
これが一番の課題です。
どうやって勉強時間を捻出するか。
朝の8時から夜の8時まで、基本的に英会話スクールの運営で手一杯です。
就寝は夜の11時頃なので、だいたい2時間~2時間半ほどを語学学習に充てたいと思っております。
疲れや睡魔との戦いになるでしょうが、ダメになりそうな自分に打ち克ちます。
受験する順番
いっぺんに全部の勉強をするのは不可能なので、自分にとって比較的負荷の少ない英語とインドネシア語から始めていきたいと思います。
英語はTOEIC®と英検®1級に向けた勉強を開始し、インドネシア語はC級合格に向けた勉強を始動させます。
メリットはあるのか?
さて、高みを目指すとしても達成させた後に収入が増えたり何かメリットはあるのでしょうか?
答えは分かりません。
あるかもしれないですし、ないかもしれないです。
ですが、この目標を共有すると、だいたいの反応は冷ややかであまり芳しくないです。
おそらく「そんなことをやっても時間の無駄」とか「ばかげている」と思われている節があります。
これらを達成させてメリットがあるかどうかはよく分かりませんが、なんか中途半端で終わらせたくないですし、折角なので勉強し続けたいと思っています。
メリットは一先ず無視して、やりたいこと、達成させたいことに愚直に突き進んでみたいです。
今後のブログについて
最後に、今後このブログですが自身の語学勉強の進捗状況や、語学教室を運営する上で日々思うことについて綴ることができたらと考えています。
このブログを通して語学の勉強を頑張っている方、そうでなくとも何かの目標に向かって突き進んでいる方のモチベーションになれば幸いです。
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皆さま、良いお年をお迎えください!

いつもブログ記事をお読みいただき、ありがとうございます!
さて、今年も本日が最終日です。皆さまにとって、今年一年はいかがでしたか?
私は念願だった英会話教室を開業し、非常に充実した一年を過ごせました。
ブログに関しては、今年の8月にこちらのプラットフォームで開始してから、早5ヶ月が経ちました。正直、半年近く続けられるとは思っていませんでした・・・。
当初は海外のYouTuberの動画を活用し、単語や熟語の解説を行う記事を書いていましたが、次第にアジアの歴史や文化に関する記事や、語学に関する課題解決型の記事を多く書くようになりました。
記事を書く際、私が心掛けていたのは主に2点ありまして、自分の興味・関心のあることを書くことと(でないと続かないと思ったので)、かつ読者の方が関心を持ったり、少しでも役に立つ内容を書くことでした。
そんなこんなで、今日まで72記事を投稿してきました。
はてなブログのアクセス解析を見ると、語学留学や語学学習など、語学関連の課題解決型の記事が特に読まれているようです。
これらの記事が実際皆さんの役に立っているのかはわかりませんが、一定の需要があることに気づきました。
この結果を受け、来年からは、より一層語学関連の内容に焦点を当て、皆さんの課題が解決できるような記事を定期的に書いていきたいと思っております。
現在、私のメインの仕事は語学講師でして、特に英語学習に関する研究や、その専門性を深める中で経験した実体験などを記事にして、皆さんの学習に役立つ情報を提供したいと考えています。
もちろん、記事を読んでいただいたことがきっかけで、私の英会話教室に関心をもって頂けたら、これ以上の喜びはありません。
今後も、記事の質を向上させ、語学学習に関する皆さんの課題解決に専念して参ります。アジアの文化や歴史に関する記事は「私の独り言」のような形で、不定期に更新していけたらと考えています。
なお私の英会話教室ですが、開業後、生徒さまの数が少しずつ増加してきており、大変嬉しく思っています。
しかし、一人では対応しきれない場面も出てきたため、来年の中頃からは経験豊富なベテラン講師さまを迎え、サービス項目を拡充することで、生徒さまの抱える様々な課題に対応できるよう努めたいと考えています。
具体的な内容は、また別途記事にしてご案内できればと思います。
今年一年、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆さま、良いお年をお迎えください!!
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マダガスカルとインドネシアのつながりについて
先月配信したブログ記事、インドネシア語を学ぶメリットの中で、インドネシア語とマダガスカルの国語であるマダガスカル語(以下、マラガシ)が同じオーストロネシア語族に属するため、似た特徴をもつと記載しました。
読者の中には、「インドネシアの言語とアフリカのマダガスカルの言語が似ているってどういうこと?」と疑問を持たれた方がいらっしゃるかもしれませんね。

この点に関して実は2005年に、イギリスの研究チームがマダガスカル人のミトコンドリアDNAを分析したところ、彼らの先祖が現在のカリマンタン島(ボルネオ島)から来たことが判明しています。
カリマンタン島からマダガスカル島への移住時期には諸説ありますが、およそ1000年から2000年前とされています。
マダガスカル島はアフリカ大陸の東側に位置していますが、アフリカ大陸の東部に住んでいた民族よりも、早くに東南アジアからの人々がマダガスカルに到着したのではと考えられています。
尚、マダガスカルの歴史を振り返りますと、多くの民族が移住してきたため、マダガスカル人は多様な遺伝的系統を持っています。
にも関わらず、研究者たちは、マダガスカル人の先祖が東南アジアから来たという仮説をどのように立てたのでしょうか。
この推測の根拠の一つが、マダガスカル人が話すマラガシという国語にありました。
この言語の分析から、彼らの祖先がオーストロネシア語族に属する地域から来たことが示唆されていたのです。
マラガシとマアニャン語

著作者:Ezagren, CC BY-SA 4.0
File:Maanyan Women at Keang Ethnic Festival 151030003.JPG - Wikimedia Commons
マダガスカルの国語であるマラガシは、現在インドネシアのカリマンタン島中央部から南部に居住するマアニャン族(Ma'anyan people)が話すマアニャン語(Ma'anyan language)が最も近い親戚と言われています(マアニャン語はマーニャン語、マニャン語と呼ばれたりもします)。
マアニャン語は現在も使用されている言語です。
ではそのマラガシとマアニャン語がどれほど近い言語なのか、数字の数え方を以下のように纏めてみました。

驚きました。だいぶ似ていますね。
最後の10のfoloですが、これは私の推測ですが、sapuluのsaが取れてpuluが最終的にfoloに訛っていったのではないかと思います。
これは数字の7も一緒で、pituのpがfに訛って、fitoになったのではないかと考えます。
ちなみに数字のみならず、以下の単語にも類似性が見られます。

ほとんど同じですね。マアニャン語をそのまま発音しても、通じそうな気がしてきます。
マラガシの音というか、イントネーションを確認したく、以下のマラガシの動画を見てみましたがインドネシア語などのオーストロネシア語族の抑揚に似ていると感じました。
興味がありましたら以下の動画をご覧ください(英語の字幕が出ます)。
このように、マダガスカルの国語であるマラガシとインドネシアのマアニャン語に、類似性が見られることが分かりました。
しかしながら先にも述べましたように、マダガスカルは歴史上、様々な民族が移住してきております。
もちろん、これら移住してきた人々の言語も今日のマラガシに影響を与えている事実はあるものの、アジアやオセアニア地域で広く話されているオーストロネシア語族の特徴が、より色濃く残っています。
アフリカ大陸に近いこの地域で、なぜオーストロネシア語族の言語的特徴が今日まで色濃く残るようになったのかは、実はまだ解明されていないそうです。
さて、マダガスカルの先住民であるマダガスカル人が現在のインドネシアのカリマンタン島から移住してきたことは分かりましたが、彼らはどのようにして辿り着いたのでしょうか?
カリマンタンの民はどうやってマダガスカルへ渡ったのか?
1. アウトリガーカヌーに乗って渡った
Wikipediaによると、アウトリガーカヌーを用いて現在のインドネシアの地域からマダガスカルまで移動してきたと記述があるのですが、この情報の原典を確認することはできませんでした。
アウトリガーカヌーとは、南太平洋で主に使用されているカヌーの一種で、通常のカヌーとの違いは、本体の片脇か両脇に浮き(アウトリガー)が付いている点です。
この浮きによってカヌーのバランスを保ち、海洋での長距離航海が可能になると言われています。

著作者:WRI Staff, CC BY 2.0
File:Madagascar - Traditional fishing pirogue.jpg - Wikimedia Commons
アウトリガーカヌーの起源については明確には分かっていませんが、東南アジア島嶼部でその構造が発展し、東はイースター島、西はマダガスカルまで拡散したとされています。
実際、マダガスカルでも東南アジアやオセアニア地域で使用されるのと同様のアウトリガーカヌーが存在します。
このような背景から、マダガスカルの先住民はアウトリガーカヌーで移動してきたという説が提唱されています。
しかし、カリマンタン島とマダガスカル島の距離は約7,000~8,000kmあり、アウトリガーカヌーでの航海が実際に可能だったかどうかは不明です。
南赤道海流(南東貿易風)を利用すれば容易に航行できる距離とも言われていますが、当時のアウトリガーカヌーの技術でその航行が本当に可能だったのか、その裏付けは見つかっていません。
また、カヌーでの移動には多くの人が乗船できないこと、食糧の備蓄などはどうしていたのか、多くの疑問が残ります。
2. アウトリガー付きの帆船に乗って渡った
また、カリマンタン島に住むマアニャン族の主な居住地は内陸部で、海に面していないため、彼らが遠洋航海の技術を持っていたとは考えにくいです。
そのため、マレー人やジャワ人がマアニャン族を奴隷として貿易船に乗せ、共に航海していたという説があります。
この説に関連して、7世紀に栄えたスリウィジャヤ王国と8世紀のシェイレンドラ王朝が挙げられます。
スリウィジャヤ王国はマレー系の海上交易国家で、首都は現在のインドネシア・スマトラ島のパレンバンにありました。

シェイレンドラ王朝はジャワ島中部で栄え、現在世界遺産となったボロブドゥール寺院を建造しました。


著作者:22Kartika, CC BY-SA 3.0 DEED
パレンバンのスリウィジャヤ時代の遺跡からは船の舵が発見されているそうで、またボロブドゥール寺院には*アウトリガー付きの帆船が彫られており、これらの王朝の時代に遠洋航行できそうな船が存在していたことは判っています。
*この帆船をシェイレンドラ王朝が建造していたのか、はたまたペルシャ船なのか、中国の船なのかは不明

著作者:Anandajoti, CC BY-SA 3.0 DEED
File:032 Avadana Level 1, Ship and Crew.jpg - Wikimedia Commons
2003年には、ボロブドゥール寺院に描かれた帆船を忠実に再現した木造船サムドラ・ラクサ号が建造されました。
この船は、エンジンなどの動力を使用せず、インドネシアのジャカルタからアフリカ・ガーナの首都アクラへの航海プロジェクトに使用されました。
このプロジェクトでは、インドネシア人と欧米人の計15名が航海に参加し、途中マダガスカルにも立ち寄ったそうです。
ジャカルタを出港してから約2ヶ月でマダガスカルに到着したそうで、竹製のマストが一本壊れるトラブルはあったものの、乗組員の健康面などでは特に問題はなかったとのことです。

著作者:Phillip Beale (photograph), パブリックドメイン
File:Samudra Raksa dari depan, dengan layar terkembang seperti sayap angsa.jpg - Wikimedia Commons
これらの事実から、スリウィジャヤ王国やシェイレンドラ王朝時代にアウトリガー付きの船でマアニャン族を乗せ、マダガスカルまで航海したという説が提唱されています。
しかし、これが意図的な航海であったのか、あるいは難破(漂流)によるものであったのかは不明です。
また、この説を裏付ける歴史的物証はマダガスカルで発見はされていません。
マダガスカルとインドネシアの文化における類似点
1. 楽器 - 筒型ツィター
マダガスカルには、伝統的な民族楽器としてヴァリと呼ばれる楽器があります。
アルファベットではValihaと表記されますが、最後の「ha」は発音されないそうです。この楽器は筒状で縦長の弦楽器でして、本体は竹で作られています。
元々は竹の皮を弦として使用していたそうですが、現在では金属製の弦が一般的に使用されています。

著作者:Rob Hooft, CC BY-SA 3.0 DEED
実は興味深いことに、このヴァリに類似した楽器は、インドネシアをはじめとする東南アジアの各国にも存在します。
これらの楽器の名称は国によって異なりますが、本体は筒状の竹で作られており、金属弦や竹の皮の弦が使用されるなど、ヴァリと同様の構造を有しています。

奏者はカンボジア モンドルキリ州の男性
著作者:Veang Bunlin, CC BY 3.0 DEED

奏者はインドネシア 東ヌサ・トゥンガラ州 ロテ島の男性
著作者:Fakhri Anindita, CC BY-SA 4.0
諸説ありますが、ヴァリはインドネシアやマレーシアの商人によってマダガスカルにもたらされたとされています。
以下にササンド(Sasando)と呼ばれるインドネシアの楽器とマダガスカルのヴァリ(Valiha)の演奏動画を掲載します。どちらも美しい旋律を奏でる楽器ですね。
★Indonesia - Bolelebo (Versi Harbabiruk) - Sasando Vocal Instrumental
★Madagascar - Linda Volahasiniaina joue la Valiha
2. 家屋建築
マダガスカルの伝統的な家屋は、東南アジアでよく見られる、高床式住居に類似していると指摘されています。
これらの家は杭の上に建てられ、形状は長方形です。屋根は切妻造で、中央の柱によって支えられています。このような建築スタイルはアフリカの他の地域では珍しく、特有のものとされています。
さらに、ウィキペディアに記載されている情報によると、マダガスカルとインドネシアの両地域では、屋根を支える中央の柱が神聖視されているそう。
新しい家を建てる際には、伝統的にこの柱に血を塗る習慣があり、この点でインドネシアとの類似性が見られるとされています。
なお、以下の方の記事にマダガスカルの家屋建築に関し写真付きで詳細が掲載されているので、リンクを添付いたします。
3. 食文化
マダガスカルの主食は、東南アジア諸国と同様に米です。
この米は、マダガスカルに最初に入植したとされる現在のインドネシア・カリマンタン島南部の人々によってもたらされたと言われています。
インドネシアの主食も米であり、マダガスカルでは一日に3回米を食べることが一般的で、世界でも最も米を消費する国の一つだそうです。

著作者:Bernard Gagnon, CC BY-SA 3.0 DEED

著作者:Z thomas, CC BY-SA 4.0 DEED
File:Varanga Antananarivo 2019-10-21.jpg - Wikimedia Commons
マダガスカルで食べられる米の種類は長粒米(インディカ米)です。
また、入植者は米以外にもプランテン(バナナの一種)、タロイモ、ヤムイモなども持ち込んだとされ、現在のマダガスカルの食文化に大きな影響を与えたとされます。
あとがき
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました!
今回は東南アジア・インドネシアとアフリカ・マダガスカルのつながりについて取り上げてみました。
7,000~8,000kmも離れた別の大陸に暮らす人々が、似た言語を話し、DNA分析で同じ出自を持つことが明らかになるとは、本当に驚きですし、ロマンを感じますよね。
生物地理学者のジャレッド・ダイアモンド氏が「人文地理学における最も驚異的な事実(the single most astonishing fact of human geography)」と言ったのも頷けます。
しかし言語だけでなく、多様な民族がマダガスカルに移住したにもかかわらず、東南アジアと共通の文化が色濃く残っているのは不思議ですね。
ちなみに調べてみると、マダガスカルだけでなくコモロにもカリマンタンから来た人々がいるとのこと。
しかし、どのようにして辿り着いたのかはまだ明らかになっていません。早く解明されると良いですね。
さて今後もアジアを中心に驚きの話があれば、積極的に紹介していきたいと思います。
何かご意見やコメントがありましたら、ぜひお寄せください!
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*参考文献
・Studies prove people of Madagascar came from Borneo and Africa
・Madagascar originally colonized by small group of Indonesians
・Madagascar populated from Africa, Borneo
・New Evidence on the Settlement of Madagascar - GeoCurrents
・http://qboatkanto.web.fc2.com/itopalembang/21.pdf
・VALIHA | African String Instrument | Kaypacha
・インドネシア木造建築研究序説: Introduction to the manifestation of Indonesian wooden Architecture
・https://jsis.washington.edu/csead/resources/educators/where-in-southeast-asia/madagascar/
・Rice in Madagascar. More than a food. | SATAKE Group
・Indonesia and Madagascar's Connection
・Malagasy language - Wikipedia
成都の中のチベット - チベット人街 探訪

2019年12月、私は中国四川省の成都市に滞在していました。
成都は都会でして、H&Mやユニクロが入る大型モールがあったり、イトーヨーカドーがあったりし、また地下鉄をはじめとした交通インフラも整っており、非常に住みやすい都市です。


休日になると多くの人たちで賑わう
都会である一方で、路地裏に入ると都会の喧騒が消え去り、ゆったりとしたリズムが流れています。


そんな成都は、三国志で有名な劉備が建国した蜀の都市でもあり、三国志の聖地としても知られています。
ここには、劉備や諸葛亮など蜀の英雄を祀る武侯祠(ぶこうし)という霊廟があり、連日、中国各地からの観光客で賑わっています。

連日、多くの観光客が詰めかける
さて、私も思い出作りのためにこの霊廟を訪れたのですが、その道中で何やら中華らしからぬ雰囲気を持つ脇道を発見しました。
好奇心に駆られて、霊廟訪問前にこの脇道を探索したのですが、その場所はまるでチベットの拉薩(ラサ)にいるかのような気分にさせてくれました(実際には拉薩に訪れたことはありませんが・・)。
後日、成都に長く住む中国人の友人にこの話をしたところ、武侯祠の近くに*藏族一条街(チベット人街)または武侯祠横街と地元の人に呼ばれる独特な地区があると聞き、その友人と再度その地域を訪れることにしました。
今回このブログ記事では、四川省成都市の武侯祠付近にあるチベット人街について記載します。
*藏族とはチベット族のこと
チベット人街について
地下鉄3号線の高升桥駅で下車し、武侯祠を目指して歩いていくと、通常の中華のイメージとは全く異なる異国情緒あふれる脇道に出会います。
このチベット人街と呼ばれる地区には、チベット仏教関連の用具や、チベット族の衣服、チベットの食べ物を扱う店が多数あり、店の看板にはチベット文字が見られます。
そう、ここはチベット族の方々が沢山住んでいる地域なのです。

この地区には西南民族大学やチベット自治区成都駐在事務所など、この地区特有の施設も点在しています。
私が友人と再びここを訪れた時間帯は夕食時でして、以前訪問した昼間とは異なり、多くの露店が出ていました。
これらの露店では、靴、チベット風の雑貨、数珠などの仏教用具を販売していました。


この通りを行き交う人々の多くは漢民族というよりも、その容姿から見てチベットの方々が多いように思われました。
ちなみにこの地区は、別名チベットの後庭とも呼ばれているみたいです。
ただ具体的に、彼らがいつ頃この地区に定住し、コミュニティを形成し始めたのかについては、はっきりとした情報はありませんでした。
四川省はチベットと隣接しているという地理的な近接性や、またチベットに比べて成都は温暖であるという、その気候的な要因で移住してきているのかもしれません。
その辺のお店で聞いた話によると、チベットで裕福な人たちが成都で家を購入し、定住するケースがよくあるそうです。

赤色が四川省、青色がチベット自治区
チベット料理を食す
ともあれ、腹が減ったので、適当に見つけたレストランでチベット料理を楽しむことにしました。
訪れたのは曼茶藏餐(Man Cha Zang Can)というレストランです。
レビューを確認せず、目の前にあったこの店に入りました。
曼茶は恐らく曼荼羅(まんだら)に由来しているのでしょうか。
藏餐はチベット料理を意味します。



店内はこじんまりとしていましたが、温かみのある内装で、チベットの風情を感じました。
一緒に訪れた中国人の友人はチベットを2度訪れた経験があり、彼のおすすめに従って、チベットで日常的に食されている料理を選びました。
1. 酥油茶(Su You Cha)- バター茶
まず出てきたのは酥油茶(Su You Cha)、いわゆるバター茶です。

このバター茶はチベット地方や、ヒマラヤ地域で日常的に飲まれている飲み物です。
別名、ポー茶とも呼ばれています。
このお茶は、茶葉を長時間煮込んで濃い味にしたものに、ヤクのバターと塩を加え、よく撹拌して作られます。
乾燥した気候において、水分、脂肪分、熱量、塩分を効率的に補給し、暖を取るのに役立つため、高地のチベットでは重宝されているそうです。
ただし、その味は若干塩辛く、独特な風味があります。
飲み物というよりは、みそ汁のような料理の感覚を受けるため、好みが分かれるかもしれません。
ちなみに酥油はヤクのバターを指します。
2. シャパレ(Sha phaley)
さてバター茶を楽しんでいると、次に登場したのが、こちらシャパレ(Sha phaley)というチベットのミートパイです。

チベット料理の中でも人気があり、製法は様々あるみたいですが、基本的にはパン生地にヤクの挽き肉やキャベツ、ニンジン、タマネギなどの野菜を包んで揚げたものです。
人によっては、スパイスやハーブも味付けに使用するとのこと。

ヤクの挽き肉が使われていた
シャパレを味わうと、まず感じられたのは外皮のサクサクとした食感でした。
パン生地は金色に揚げられており、一口かじるたびに心地よい「サクッ」という音がしました。
生地は適度な厚みがあり、噛み応えが感じられます。
中の肉と野菜は塩やコショウで適度に味付けされ、それぞれの素材の味が生きていました。
スパイスは控えめで、肉の味をうまく引き立てており、これは飽きることなく何個も食べたくなるほど美味しかったです。
全体として、シャパレは非常に満足感のある料理でした。
暖かく揚げたての状態で食べると、その美味しさが一層引き立つと感じました。
シャパレはチベットで軽食としてスナック感覚で食べられるそうですが、かなり腹持ちが良かったです。
3. 料理名を忘れました・・・
さて、お次に出てきた料理はこちらの料理なのですが・・・

すみません、肝心の料理名を忘れてしまいました・・・。
もし誰かご存知の方がいらっしゃれば、教えていただけると幸いです!
この料理の味わいは、なかなか言葉で表現するのが難しい独特なものでした。
食感は非常に弾力があり、噛むほどに味わいが出てきます。
硬すぎず、柔らかすぎず、ちょうど良いバランスを持っていました。
味は独特で、酸っぱさと甘さの両方を感じることができました。
酸っぱさは最初に感じるのですが、徐々に甘さが登場して酸っぱさを包み込んでいくような味わいでした。
この料理も先に記したバター茶と同様に、特有の風味があり、好き嫌いがはっきり分かれる料理だと感じました。
この料理、おそらくヤクの乳から作られるチーズではないかと思います。
チベットではヤクや羊の乳から作られる様々なチーズがあるみたいで、どれも独特な食感や風味を有すそうですね。
このチーズも、高地の寒冷地域で暮らすチベットの人たちにとって、なくてはならない栄養価の高い食事だそうです。
4. チベットのヨーグルト
そして、最後に出てきたのが、こちらのヨーグルト。

ヤクの乳で作られたヨーグルトです。
チベットでは、古くからヤクのミルクを使ったヨーグルト作りが行われているそうで、一般家庭でも作るそうです。
搾りたてのヤクのミルクを煮沸し、冷ましてから前日に残ったヨーグルトを発酵剤として混ぜ、外に置いてゆっくりと発酵させた後、冷蔵庫で冷やして食べるとのこと。
このヨーグルトはチベット仏教とも密接に関連しています。
チベットにはショトン祭り(Sho Dun Festival)、別名ヨーグルト祭りがあります。
これは僧侶たちが、夏の瞑想期間が終わったことを祝う祭りです。
仏教の戒律に則り、僧侶たちは夏の間、外出して殺生を避けるために外界から離れて寺院内で静かに修行に励みます。
6月が終わると、僧侶たちは修行を終え、山から降りてきます。
この時、地域の人々が彼らの修行を讃え、ヨーグルトを振る舞って慰労する習慣があります。
これがショトン(Sho Dun - 雪顿)の由来だそうです。
なお、Sho(雪)はチベット語でヨーグルト、Dun(顿)は宴会を意味するとのことです。
味わいに関しては、このヨーグルトはクリーミーで滑らかな舌触りが特徴的です。
独特な酸味がありながらも、どこか爽やかな風味が感じられます。
後味には、自然な甘みも若干感じられました。
私はこのヨーグルトをおいしくいただきました。
チベット料理に対する感想
今回私は、チベット料理を人生で初めて食しました。
シャパレを除いて、どれも日本では味わうことのない独特な味を有しており、人によって好き嫌いが分かれるかもしれないと思いました。
私にとっては特に問題はありませんでしたが、感動するほどおいしかったかと言われると、正直そうではなかったです。
ただこれも、食文化を学ぶ一環として貴重な経験であり、機会があれば是非チベット現地で、本場のチベット料理を味わってみたいと思いました。
ちなみに、チベットを2度訪れた友人によると、このレストランの料理はチベットで食べた料理よりも美味しかったとのことです。
チベット僧侶に出会う
お腹もいっぱいになった後、私たちはレストランを出て、元来た道を戻り始めました。
すると、周囲にチベットの僧侶らしき人々がたくさんいるような・・・。

お~、やはりチベットのお坊さんたちの集団ですね。
レストランに入る前はそれほど多くは見かけませんでしたが、この時間帯には赤い僧衣を着た多くのチベット仏教の僧侶たちが、露店で何かを物色している様子が見受けられました。


どうやら彼らは、数珠や他の仏教用具を眺めているようでした。
まさか成都で、これほど多くのチベット仏教の僧侶に遭遇するとは思ってもみませんでした。
彼らがゆっくりと買い物を楽しんでいる姿を見て、その穏やかな光景に心が和みました。
あとがき
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました!
今回は、四川省の華やかな大都市、成都市に隠された、中華とは一線を画す異国情緒溢れる世界を紹介しました。
四川省の西側、チベットと接する地域に位置するカンゼ・チベット自治州には多くのチベット族の人たちが住んでいると以前から耳にしていましたが、成都市内にもチベット文化が色濃く存在する地区があるとは、初めての発見でした。
チベット人街に足を踏み入れた瞬間、まるでチベットそのものに迷い込んだような感覚に陥り、とてもワクワクさせられました。
皆さんが四川省成都市を訪れる機会があれば、ぜひチベット人街に立ち寄って、その魅力を肌で感じてみてくださいね!
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英文法は薄い参考書で勉強する - 英語に再挑戦する方へ

私は現在、英会話の初心者さん向けに英語を教えています。
多くの生徒さんは中学や高校時代に受験のために英語を学んでいましたが、その後英語を使う機会がほとんどなく、学習した内容を忘れてしまった方が多いです。
そのため、皆さん基礎から文法をしっかり学び直したいと考えており、私は中学1年生レベルの文法から教えています。
レッスンは主に私が作成した資料を基に進めていますが、生徒さんの中には「自分でも積極的に英文法の学習を進めたい」という方もいらっしゃいます。
その際、「本屋やアマゾンで教材を探すが、多すぎてどれが適切か分からない・・・」というお話もよく伺います。確かに、自分に合うテキストを見つけるのは大変な労力です。
私自身も英会話の初心者だった時、適切な文法の参考書を見つけるまでに、それなりにお金と時間、そして労力をかけました。
その結果、英語の参考書マニアみたいになってしまいましたが・・。
さて、生徒さんには、以下の条件を満たすテキストを選ぶことをお勧めしています。
- 薄くて、軽い
- 問題が豊富に掲載されている
- テキストの対象レベルと、終了後の達成レベルが記載されている
私の経験上、これらの条件を満たすテキストであれば、どれも良いのではないかと考えています。
このブログ記事では、なぜこれらの条件を満たす参考書が初心者に適しているのか、そして私がお勧めする文法の参考書を、私の経験に基づいて紹介します。
英会話の初心者さんや、英語の文法を再び学びたい方の参考になれば幸いです。
おススメする文法書の3つの条件
1. 薄くて、軽い
私は生徒さんに、薄くて軽い参考書の選択を推奨しています。
英語学習を始めた当初、私は桐原書店さんから出版されている「総合英語 Forest」や「Next Stage」のような教科書を使用していましたが、挫折を経験しました。
これらの参考書はページ数が多く、その分厚さも相応です。
購入した時は「よし、今日からやるぞ!」と熱量高く取り組もうとするのですが、数日経過すると、参考書を一見するだけで、「これほどの量をこなさなければならないのか・・・」と感じ、勉強に取り掛かる前から気落ちしてしまいました。
参考書を手に取ろうとするだけでも一種の心理的な障壁となり、勉強を始めるのに無意識のうちに抵抗を感じるようになります。このため、勉強がなかなか始まらず、結局は本棚の片隅に眠ってしまうことになりました。
また、ページ数が多いため重さも増し、外出時に持ち歩くのが面倒になることもありました。
このような経験から、勉強を始める際の心理的な障害を最小限に抑え、手軽に始められるような、持ち運びも簡単な参考書の重要性を感じています。
そのため、薄くて軽い参考書を選ぶことを推奨しています。
2. 問題が豊富に掲載されている
英語の習得に成功した人たちに、彼らの英文法の学習方法を尋ねたところ、よく「たくさんの問題を解いた」という答えが返ってきます。
私自身も「習うより慣れろ」の精神で、文法に関する説明はざっと読んだ後、すぐに問題に取り組むことを推奨しています。
間違いは必ず発生しますが、その都度、間違えた理由を考察し、付随する解説を読んで理解を深めることが重要です。
こうした解説も、あまり長ったらしい解説ではなく、ポイントをついた必要最低限の情報を掲載した参考書であることが望ましいです。
また間違えた問題については、何度も繰り返し解くことが大切です(私の場合、最低でも5回は、日を改めて再挑戦していました)。
この繰り返しにより、徐々に知識が頭に定着していきます。
このような実践を重ねることで犯したミスを修正し、文法の理解を深めるアプローチは、文法を会得する上で効果的です。
そのため、解説は必要最低限だが問題が多く掲載されている参考書を推奨しています。
3. テキストの対象レベルと、終了後の達成レベルが記載されている
参考書選びにおいて、どのレベルの学習者を対象としているか、そしてその参考書を完了した際に達成できるレベルが明記されている書籍を推奨しています。
分厚い参考書では、例えば時制の項目において中学1年生レベルから高校3年生レベルまでの内容が網羅されていることがよくあります。
このような構成では、一つの項目を完了するのに非常に時間がかかり、「まだこれだけのページ数が残っている...」と感じ、達成感が得られにくい状況になります。
この状態は、現在地が分からず終わりのない道を歩いているような感覚で、挫折しやすくなります。
一方で、対象レベルが明確にされている薄い参考書では、例えば「この参考書は英検準4級レベルの方を対象とし、終了時には英検3級のレベルに到達できる」といった記載がある場合、各文法項目がそのレベルに応じて掲載されており、内容量も多くなく、比較的短期間で完了できます。
これにより達成感を得やすく、勉強への積極性が高まり、モチベーションも向上します。
このような効果が期待できるため、対象レベルと完了時のレベルが明記された参考書を推奨しています。
私がお勧めしている文法の参考書
私が生徒さんに推奨している文法の参考書は、東進ブックスが出版している安河内哲也先生の「英文法レベル別問題集」です。
私自身、東進に通った経験はありませんが、多くのテキストを確認した結果、この参考書がベターではないかと判断しています。
購入を強制するわけではありませんが、初心者さんには、この参考書が前述の3つの条件を満たしているため、お勧めしています。
学生時代、私はこの参考書を手に取り、英語が苦手であった自分でも理解しやすいと感じました。そして実際に、この参考書で文法を学び、英会話能力を向上させてきました。
このレベル別問題集シリーズは、1. 超基礎編、2. 基礎編、3. 標準編、4. 中級編、5. 上級編、6. 難関編までありますが、生徒さんには「1. 超基礎編」から「3. 標準編」までの3冊で十分だと伝えています。
英会話では受験英語で出てくる複雑な文法がそこまで必要ではないため、私は特にこの「超基礎編」から「標準編」の3冊に焦点を当て、勉強しました。
その後のレベルに関してはテキストを購入すらしておりません。


サイズも大きくないので、持ち運びも楽。

しかし抑えるべき必要最低限の内容が載っているので問題ない。

解説も必要最低限ではあるが、ポイントをついている。
間違えながら何度も解いて、頭・体に定着させていく。
この助動詞の項目で10問の穴埋め問題と、10問の並び替え問題が載っている。

これで文法が頭に定着しているか最終確認も可能である。



このシリーズの「標準編」までの学習で、TOEIC600点程度の文法はカバー可能です。
生徒さんからは「この参考書に載っている英文を暗記するほどやりこんだ方が良いのか?」という質問を受けることがありますが、英文を暗記する必要は特にないです。
文法の理解を深めることが主目的であるため、このテキストを「瞬間英作文」のような使い方は推奨していないです。
私のレッスンでは学んだ文法事項を基に、オリジナルの瞬間英作文教材を用い、実際の日常会話やビジネス英会話で使用できるような英文の作成とその文の暗記を行います。
このような形で、会話中に素早く適切な文が口から出るようトレーニングしております。
最初はスモールスタートで、少しずつ成功体験を積もう!
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が英文法の復習を考えている方、英会話の初心者の方にとって参考になれば幸いです。
他の分野にも当てはまるかもしれませんが、いきなり「がっつり」取り組むよりも、スモールスタートで少しずつ進める方が、心理的なハードルが低く、継続しやすいと考えます。
実践を通してたくさんのミスを犯し、間違った箇所を都度修正し、繰り返し解いて知識を定着させていくことが大切です。
このようにして、少しずつ達成感を感じながら、成功体験を積み重ねることが勉強に対しモチベーションを引き出す上で大切だと思います。
なお、今回紹介した参考書や選び方は私の経験に基づいたものです。必ずしも「これが正解!」というわけではありませんので、実際に本屋でご自身で参考書を確認することをお勧めします。
皆さんにとって最適な参考書に出会えることを願っています。
語学学習の道のりを一緒に頑張りましょう!
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私の英会話教室では現在、英会話を学びたい初心者さんを募集中です。
無料体験レッスンも随時実施しておりますので、是非お気軽に以下のリンクよりお問い合わせください。
30代からの語学留学 - 会社辞めて留学した人のリアルな体験談

2019年12月、29歳の私は、当時勤めていた会社を退職することを真剣に考えていました。
会社の待遇や仕事内容に不満があったわけではありません。
私は単純に中国への語学留学に強い願望を持っており、そのために退職を検討していました。
このブログでは、私の経験をもとに、社会人が会社を退職し、語学留学することについて記してみました。
私の結論は、社会人の語学留学に賛成です。
この記事が現在社会人で語学留学を検討している方々にとって、何らかの参考や助言になれば幸いです。
自身の体験談
中国への留学に至るまで
私は大学時代に中国へ興味を持つようになり、在学中に留学を望んでいました。
中国語の習得だけでなく、歴史や文化に直接触れてみたいという気持ちがありました。
しかし当時、尖閣諸島付近で中国漁船が海上保安庁の巡視船へ衝突する事件が発生。
中国での反日デモやストライキの映像を見て、身の危険を感じ留学を断念することに。
結局、大学在学中に中国へ行くことはありませんでした。
卒業後、私は地元のメーカーに就職。
中国語は、仕事をしながらでも学べるという人もいましたが、私には難しかったです。
業界知識、製品知識、貿易に関する勉強、業務フローの把握、英語力の維持など、日々多くのことを学ばなければなりませんでした。
そうこうしていると今度はインドネシアへの赴任が急遽決まり、インドネシア語を急いで勉強する必要があり、中国語の学習どころではありませんでした。
東南アジアへ赴くと、中国への憧れは更に強まりました。
東南アジアでビジネスをしていると、中国語の重要性を感じると同時に、東南アジアに住む華人と中国本土の人々の違いが気になったり、華人の文化の源流である中国の歴史や文化に、やはり触れたいという気持ちが増々強まっていきました。
結局、会社で働き続けるよりも「中国に行きたい」という気持ちが勝り、退職を決意しました。その会社には6年半勤めました。
退職交渉の際に、中国行きを宣言しました。
その際、担当者より中国に子会社があるので、そちらへの出向も提案されました。
しかし私は、仕事のことは考えずに、自由に動き回り、四六時中中国の人たちに交わっていたいという気持ちがあったので、その提案を断りました。
また会社によっては、若手に投資して海外の提携スクールに派遣し語学留学をさせるケースもありますが、それはお金が豊富にある一部の大手企業ができること。
私が勤務していた会社は中堅企業だったので、そのような福利厚生はありませんでした。
もちろん「中国語を習得すると、これだけ会社にとってメリットがある」ことを示した資料を作り、上層部に提案して会社の資金で留学する手もないわけではなかったのですが、会社との貸し借りを作りたくなかったので、この考えも却下しました。
また「1年間の休職」という形も考慮しましたが、こちらは「前例がない」とのことで、会社側が乗り気ではありませんでした。
退職交渉は退職する半年前に実施。
辞めるまでの半年間は、引継ぎ作業に集中しました。
そんなこんなで、会社とは特にトラブルもなく、淡々と退職することができました。
その後、貯金を使って中国へ渡り、とある大学の語学学校に入学しました。
その時、私は30歳でした。
念願の中国へ
中国には1年間滞在する予定でした。
留学前には周囲から「留学後の計画は?」と問われましたが、私は「そんなの知らんがな」と答え、留学に踏み切りました。
多くの人が「留学後のビジョンや綿密な計画が必要」と言いますが、私はそういったことを一切考えずに留学しました。
明日や明後日のことさえ予測できないのですから、来年のことを考えるのは無意味だと思いました。
計画通りに物事が進むとは限らないため、細かな計画は立てず、単に「中国語を話せている自分」という将来像だけを妄想して中国へ向かいました。
中国に到着して最初の1週間は、大学の入学登録や銀行口座の開設に苦労しました。
しかし、その後は毎日楽しく過ごせました。
平日は朝から晩まで中国語の勉強に没頭し、食事の時間は外食で美味しい中華料理を頬張りました。
暇な時間は中国人の友人たちと近くの観光地を訪れたり、映画を観たりして過ごしました。
非常に充実した日々を送っていたので、仕事を辞めたことに後悔した日は一日もありませんでした。
むしろ、もっと早く来るべきだったと思いましたね。
将来のことは考えず、ただその時を楽しむことに集中しました。
朝目覚めてから就寝まで、中国での生活を堪能し、毎日疲れ切るまで過ごしました。
アクシデント発生
充実した日々を送っていた私の留学生活は、半年経過した頃に突然のアクシデントに見舞われました。
それは新型コロナウイルスの流行です。
1年間、滞在するつもりでしたが、今後の状況が不透明であり、日本大使館からは一時帰国を勧める退避勧告が出ていたため、他の日本人留学生と共に帰国することにしました。
「中国にすぐ戻れるだろうか?恐らく無理だろうな・・・」という思いで帰国の途につきました。
このウイルスの流行により、国際的な渡航は封鎖されました。
このような不足の事態に関しては、東南アジアで何度も経験していたので、とりわけ驚くことはなく、焦ることもなかったです。
やはりこういうことがあるので、綿密な計画を立てることがいかに無意味かを再認識しました。
中国での滞在は楽しく過ごせましたが、中国語の能力にはまだ物足りなさを感じていました。
当初1年の留学を予定していたので、残り半年を日本で中国語のリスニングとスピーキングの向上に使うことにしました。
食事の時間以外は、ほぼ部屋にこもって勉強を続けました。
私の事情を知っている人は「国内で中国語の勉強を頑張っている人」と見ていましたが、事情を知らない人からは「引きこもりの無職」と見られていたかもしれません。
しかし世間の目は気にせず、自分のやりたいことに専念しました。
コロナ流行から半年ほど経った頃、中断していたHSK(漢語水平考試)が再開されることとなりました。
自分の現在の能力を試す意味で、また将来的に何かの役に立つかもしれないというモチベーションで受験しました。
最終的にHSK6級を取得し、スピーキングやリスニングの能力も満足いくレベルに達しました。
これを機に、中国語の集中的な勉強を一区切りし、次に何をして生計を立てるかを考え始めました。
この時、私は31歳でした。
31歳で転職活動
「30歳を超えると転職が難しくなる」という意見や「語学留学は企業に評価されない」という説を目にしたり聞いたりしましたが、気にすることはありませんでした。
「重要なのは、自分が明日食っていくためには今何をすべきか」、これだけにフォーカスしました。
ひとまず分かっていたのは、中国を含む海外への出国が困難であること。
それに伴い、満足のいく海外案件の求人もほとんど見つからない状況でした。
ただこの時、私はオンラインの世界にも興味を感じていました。
リアルの世界経済が停滞している中、オンラインの世界はその影響を受けていない、今後もっと注目されるフィールドだと感じました。
将来的に現実世界のビジネスが再開されても、再び同様の事態に直面する可能性があるかもしれない。
そうしたことを考えると、オンライン関連の業界で活き抜く術を身につけることも重要だと感じました。
そのため、自身の「海外」や「語学」という強みを一時的に後回しにし、前職での「製造業」と「BtoB営業」の経験を活かせ、かつ将来的にはアジアへの展開も視野に入れているIT関連企業をターゲットに転職活動を開始しました。
幸い書類選考で落とされることは一度もなかったです。
面接ではすべての企業から、「帰国後コロナ下で何をしていたか?」と質問を受けました。私は正直に「自室に籠って中国語を勉強していた」と答えました。
2ヶ月前に取得したHSK6級の資格は、勉強をしていた証として説得力を持たせました。
もちろん、「このままコロナが長引いて、強みとしている海外案件に中々携われない可能性もあるが、それは大丈夫なのか?」や「IT系の経験がないが、ついてこれそうか?」などのツッコミも受けました。
私としては「この事態をむしろチャンスととらえ自分を変えたい。オンラインの世界でも活躍できる人材にまずはなりたい。コロナが収束すれば海外 x 語学の強みをも全面に押し出していきたい。ただそれに向けた準備を今すべき」と語り、納得してもらいました。
最終的に6社の内4社から内定を得て、「どうしても来てほしい」と言われた企業に入社しました。
転職活動に掛けた期間は約2ヵ月でした。
この会社での勤務は、オンラインでの基本的な商売方法を学ぶ良い機会となりました。
勤務中は中国語を使用する機会はありませんでしたが、退職後の現在は活用できているため、後悔はしていません。
世間やネットでの語学留学否定派は無視して良い
以上が私が経験した語学留学と、その後の道のりについての率直な体験談となります。
今置かれている自身の状況を客観的に考慮し、都度より良い判断を下していくことで、結果として転職活動は上手くいきました。
何よりも、長年の夢であった中国留学を実現し、中国語の能力も獲得できたことは、大きな満足感をもたらしてくれました。
2019年の当時、ネット上では「社会人の語学留学は止めておけ」、「留学しても帰国後職が見つからず後悔する」、「語学留学はキャリアアップに繋がらない」といった否定的な意見が多く見られました。
しかし、これらの言説は完全に無視しても問題ないと私は考えています。
実際、私のようなケースは思ったよりも多く、以下のような方々がいらっしゃいます。
私と似たようなケースの人たち
- 29歳で会社を辞め、1年間の世界一周旅行後に転職。
- 30歳で会社を辞め、とりあえず南米へ行き、1年後に帰国して転職。
- 30歳でカナダへ語学留学し、1年後に帰国して転職。
- 33歳でカナダへ語学留学とワーキングホリデーを経て、帰国後にアンティークショップを開業。
- 37歳で中国へ語学留学し、現地の会社に就職。
- 34歳でオーストラリアへ旅立ち、40歳手前で帰国し転職。
これらの人々とは仕事を通じて出会いました。
彼らと出会った際、「なんだ、自分と同じような人って意外と多かったんだな」と思いました。
彼らは皆、無事に就職し、普通に働いています。
語学学校で40代以上の留学生達にも出会う
中国の語学学校では、欧米出身で40代以上の留学生達に出会いました。
- アメリカ人女性(60代前半):「自身の世界観を拡げたい」という動機で留学。毎晩Skypeを通じて夫と連絡を取り合いながら、中国での生活を楽しんでいるらしい。
- アメリカ人男性(40代):中国茶の文化に興味を持ち、その文化を深く理解するために中国へ留学。
- ドイツ人女性(40代):中国の文化に魅了され、その深い理解を求めて留学。
年齢関係なく新しいことに挑戦する彼らの姿に大きな刺激をもらいました。
人生のどの段階にあっても、学びや成長の機会は常にあるんだなと勉強になりました。
結論 - 語学留学、したいならすべし
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました!
ここまで読まれた方は、在職中であるものの、語学留学をすべきかどうか真剣に悩んでいらっしゃる方かと思います。
私の結論は、もし何かしら理由や目的があるならば、語学留学をお勧めします。
私自身、中国語の習得と中国の文化に触れるために退職し、留学することを選びました。
語学力向上を目指す場合、3ヵ月や半年のような短期留学よりも1年ほどの長期留学が有効です。
短期留学では、特にリスニングやスピーキングの向上に限界があると感じました。
また語学留学の際には、最終的に何らかの資格を取得することをお勧めします。
英語なら英検、TOEIC、IELTS、もしくはTOEFLのいずれか、中国語なら中国語検定やHSKなどがあります。
これらの資格は勉強の成果を客観的に示す証拠となり、いざという時に役立ちます(資格のための勉強は面倒くさいのですがね・・・)。
また帰国後の就職活動において、「30代で海外に行ったからキャリアに傷がつく」という心配は不要です。
実際に私は、1年のうち半年は日本国内の自室に籠って勉強していましたが、難なく希望通りの職に就職することができました。
同様に30代半ばで1年以上海外を放浪し、帰国後、希望の職に就いた人もいます。
30代の若輩者である私が言うのもなんですが、思い立ったら吉日で行動を起こしてみて、都度状況を見極めながらベターな対応や選択をしていくことが人生を活き抜く上で非常に重要だと実感しています。
人生は予測不可能な出来事で満ちており、出会う事象に対して柔軟に対応し、自分の進むべき道を切り開いていくことが、人生を豊かにする鍵だと思っています。
他人の否定的な意見などに安易に惑わされず、自分の信じる道を歩むことが大切です。
語学留学を検討しているあなたに、心からエールを送ります。
挑戦は時に不安を伴いますが、その一歩が新しい可能性を開くことになります。
自分の人生の主導権を握り、是非悔いのない人生を!
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インドネシアにルーツをもつ有名人たち
インドネシアの独立宣言は1945年8月17日、日本の降伏後に行われました。
その後、オランダとの間で1949年まで正式な独立を勝ち取るための戦いが続きました。
1940年代から50年代にかけての武力闘争から逃れるため、多くのインドネシア人が故郷を離れました。
その多くは宗主国オランダへ向かいました。
オランダ領東インドでオランダのために働いていた軍人、公務員、使用人、オランダ入植者との混血家族(Indo Eurasian)が新しい生活を求めてオランダに移住しました。
一部はその後、オランダを離れ、アメリカやオーストラリアへ移住していきました。

著作者:Nationaal Archief, No restrictions
現在オランダには約170万人のインドネシア系オランダ人がおり、これはオランダ国内で最大の少数民族グループと言われております。
私はインドネシアに駐在していた時、Italkiという語学学習プラットフォームでインドネシア系オランダ人の先生からインドネシア語を学んでいました。
先生は英語が話せたので、英語の勉強にもなり、一石二鳥でした。
先生との会話で、インドネシアにルーツを持ち、世界で活躍する人々について知ることができ、非常に興味深かった思い出があります。
このブログでは、インドネシアにルーツを持つ有名人について共有したいと思います。
個人的にサッカーと音楽が好きなため、内容がその方面に偏ることをご容赦ください。
インドネシアにルーツをもつ有名人
1. ヴァン・ヘイレン兄弟(Van Halen)

一番右が弟の故 エディー・ヴァン・ヘイレン
著作者:Unknown, パブリックドメイン
ヴァン・ヘイレンは1972年にアメリカで結成されたハードロックバンドで、1970年代から1990年代にかけて大きな成功を収めました。
Wikipediaによれば、1992年にグラミー賞を受賞し、2007年にはロックの殿堂入りを果たしました。
また、ウォール・ストリート・ジャーナルが選ぶ「史上最も人気のある100のロックバンド」で17位にランクインしています。
彼らの代表曲はアルバム「1984」に収録されている「Jump」で、耳にされた方も多いのではないでしょうか。
特にギタリストのエディー・ヴァン・ヘイレンのギターテクニックが革新的で、厚かましくも私もギターの練習中によくタッピングの真似をしていました・・・。
ヴァン・ヘイレン兄弟ですが、母親がインドネシアのジャワ島ランカスビトゥン(Rangkasbitung)出身でした。

首都ジャカルタから西側にある
またこのランカスビトゥンという地域が興味深い地域なのですが、それはまた別の機会に記事にします。
彼らの父親でミュージシャンのヤン・ヴァン・ヘイレンは、インドネシアに訪問した時に彼女と出会い、1950年初頭に共にオランダへ移住しました。
アムステルダムでヴァン・ヘイレン兄弟は生まれましたが、母親を含め、「混血」であることへの社会的偏見と排他的な対応に苦しんだため、家族は1962年にアメリカへ移住しました。
アメリカで、彼らはその後伝説を築くことになります。

著作者:Craig ONeal, CC BY 2.0
File:Alex Van Halen - Van Halen Live.jpg - Wikimedia Commons

残念ながら2020年に他界してしまった
著作者:Carl Lender, CC BY 2.0
File:Eddie Van Halen at the New Haven Coliseum.jpg - Wikimedia Commons
なお、Google検索で「van Halen mother」と検索すると、ヴァン・ヘイレン兄弟のご両親の写真を見ることができます。
2. ミシェル・ブランチ(Michelle Branch)

著作者:Alaina Buzas, CC BY 2.0
File:Michelle Branch Centennial Concert.jpg - Wikimedia Commons
ミシェル・ブランチはアメリカのアリゾナ州出身のシンガーソングライターです。
サンタナとのコラボレーション曲「The Game of Love」でグラミー賞を受賞し、世界的に有名なミュージシャンとして知られています。
彼女の母方の祖母はインドネシアの東ジャワ出身で、第二次世界大戦中に日本軍の強制収容所にいた経験があります。
戦後、祖母はオランダへ移住し、その後新しい生活を求めてアメリカに移住しました。
3. ロビン・ファン・ペルシ(Robin van Persie)

著作者:Елена Рыбакова, CC BY-SA 3.0 DEED
ファン・ペルシは、オランダを代表する元サッカー選手です。
彼のポジションはフォワードでした。
オランダの名門クラブ、フェイエノールトでプロデビューし、その後、アーセナルやマンチェスター・ユナイテッドでの活躍で知られています。
プレミアリーグでは複数回得点王に輝き、オランダ代表としてもスタメン選出され、3度のワールドカップに出場しました。
また、オランダ代表の通算得点記録の保持者でもあります。
ファン・ペルシの祖母は、インドネシアのスラバヤ出身です。

ジャワ島の東部に位置する
4. ヨン・ハイティンハ(John Heitinga)

著作者:Carlo Bruil Fotografie, CC BY 2.0 DEED
File:GAE - Ajax - 52788475730 (John Heitinga).jpg - Wikimedia Commons
ヨン・ハイティンハはオランダを代表する元サッカー選手です。
彼はオランダの名門アヤックスでプロデビューし、その後スペインのアトレティコ・マドリード、イングランドのエヴァートンやフラムで活躍しました。
センターバック、サイドバック、ボランチ、センターハーフと、多岐にわたるポジションでプレーするユーティリティプレーヤーとして知られています。
オランダ代表としても活躍し、EURO 2004ではベスト4、2008ではベスト8に進出し、ワールドカップでは2006年にベスト16、2010年には準優勝を経験しました。
指導者としても活動しており2022-2023シーズンにはアヤックスの監督を務めました。
ハイティンハの祖父および父親はインドネシア生まれです。
祖父は第二次大戦中、日本軍の強制収容所にいましたが、ドイツ系の血筋のため比較的安全に生活を送ることができたとされています。
一家は1950年代後半にオランダに移住しました。
*サッカーメディアによって名前を「ジョン・ハイティンガ」と記載するメディアもあります。
5. ジョヴァンニ・ファン・ブロンクホルスト(Giovanni van Bronckhorst)

著作者:Wouter Engler, CC BY-SA 4.0 DEED
File:Feyenoord-coach Giovanni van Bronckhorst-close-up.jpg - Wikimedia Common
ファン・ブロンクホルストはオランダを代表する元サッカー選手で、世界的に著名なサイドバックプレイヤーでした。
2023年11月現在、彼はスコットランドのレンジャーズで監督を務めています。
選手時代、彼はFCバルセロナで主に左サイドバックとしてプレーし、チャンピオンズリーグやリーガ、スーペルコパなどで数多くのタイトルを獲得しました。
オランダ代表としても活躍し、2000、2004、2008年の欧州選手権と1998、2006、2010年のワールドカップに出場しました。
2010年の南アフリカ大会では、準優勝したオランダ代表のキャプテンを務めました。
ファン・ブロンクホルストはオランダとインドネシアの二重国籍を持ちます。
彼の父親はインドネシア系オランダ人で、母親はインドネシアのマルク諸島出身です。

6. ロイ・マカーイ(Roy Makaay)

著作者:Knurftendans, パブリックドメイン
ロイ・マカーイは、スペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャやドイツのバイエルン・ミュンヘンで活躍したオランダの代表的なフォワードです。
デポルティーボでの活躍は特に目立ち、チームの優勝に大きく貢献しました。
2002~2003年シーズンにはリーガで29得点を挙げ、得点王に輝いています。
オランダ代表には選ばれましたが、同時期に活躍したルート・ファンニステルローイの存在や、代表チームのフォーメーションとの相性の問題から、ワールドカップへの出場は叶いませんでした。
現在はフェイエノールトのU-15チームの監督と、トップチームのFWコーチを務めています。
マカーイの母親はインドネシアのマルク諸島出身で、ファン・ブロンクホルストと同様、彼はその血を引いています。
7. ナイジェル・デ・ヨング(Nigel de Jong)

著作者:ING Nederland, CC BY-SA 2.0 DEED
オランダを代表するミッドフィルダー、デ・ヨングはアヤックス、マンチェスター・シティ、ACミランで活躍しました。
2010年の南アフリカFIFAワールドカップではスタメンとしてチームの準優勝に貢献しました。
決勝戦でのスペイン代表のシャビ・アロンソへのハイキックは大きな話題を集めましたが、デ・ヨング本人は「悪意はなかった」と述べています。
デ・ヨングの父親はスリナム出身で、インドネシア ジャワ人の血を引く先祖がいます。
母親はインドネシアのマルク諸島出身です。
*スリナムにもインドネシア系住民が多く居住しています。
マルク諸島にルーツをもつ人たちが多いのはなぜ?
さて、インドネシアにルーツをもつ有名人ということで、ミュージシャン2名とサッカー選手5名の計7名を紹介しました。
読者の皆さんもお気付きかと思いますが、紹介したオランダ人サッカー選手5名のうち3名がインドネシアのマルク諸島にルーツを持っています。
実は、オランダにはマルク諸島をルーツとするインドネシア系の人々が多く住んでいます。
マルク諸島に住んでいた人々の多くは、もともとオランダ東インド会社に雇われた軍人やその家族で、約4万人がオランダに移住したとされています。
インドネシアが1949年にオランダから正式に独立した後、オランダは現地で組織したマルク諸島の人々が多く占める軍隊(オランダ領東インド陸軍=KNIL)を解散する必要がありましたが、これに時間がかかりました。

著作者:Unknown, CC BY-SA 3.0
オランダはこのKNILと共に、インドネシアの独立・主権を阻止すべく戦っていました。
そのため、解散を迫られたマルク諸島の軍人からすると、新しく独立したインドネシア共和国はもともと敵だったわけですし信用しておらず、「なんか、納得いかんな~」となりました。
また民族や宗教もインドネシア中央政府とは異なります。
例えば、インドネシア中央政府はイスラム教であるのに対し、マルク諸島の軍人の多くはプロテスタントでした。
この背景からマルク諸島の民族主義、分離主義が高まり、1950年には「インドネシアから独立する!」とのことで「南マルク共和国」の独立を宣言する事態が発生します。
オランダ政府は成す術がなく、「将来的には南マルク共和国の独立を約束するから、まずはオランダへ来て!」と軍人たちをオランダに移送し、武装解除させる強硬手段を採りました。
移住したマルクの人々は時が来るのを待ち、オランダの収容キャンプで生活を送りました。
しかし1959年、悲運にもオランダから「ごめん、やっぱ独立無理です。代わりにオランダでの定住権あげる」となりました。
マルクの人々は異国の地での自活を余儀なくされ、オランダ社会に溶け込むこととなりました。
しかしオランダ社会への同化は容易ではなく、1960年代、70年代にはオランダで不満をもった人たちによるテロ事件などが発生し深刻な社会問題となりました。
こうした背景があり、オランダにはインドネシア マルク諸島にルーツを持つ人々が一定数居住しております。
ちなみに、現在もマルク諸島には独立に向けて地下活動を続ける人々がいるとされています。
*マルク諸島は植民地時代「モルッカ諸島」と呼ばれていました。
*またクローブやナツメグの生産地ということで「スパイス諸島」とも呼ばれていました。
あとがき
インドネシア系オランダ人のインドネシア語教師から、ヴァン・ヘイレン、ミシェル・ブランチ、そしてファン・ペルシがインドネシアにルーツを持つと聞き、正直驚きました。
みなさんもはご存知でしたか?
ファン・ブロンクホルストについては、何となくインドネシアのルーツがあると思っていました。
しかし、マカーイやナイジェル・デ・ヨングを含め、彼らがマルク諸島のルーツを持っていると知り、その理由を調べると、上述のようなマルク諸島とオランダの歴史的背景を発見し、さらに驚きました。
オランダにインドネシアからの移民が多いことは以前から知っていましたが、これらの人々の背景については新たな発見でした。
マルク諸島の歴史には興味がありますので、引き続き学び、新しい発見を皆さんと共有できれば幸いです。
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*参考文献
・オランダにおける移民労働者等統合化政策, https://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/133-1.pdf
・GIJSBERT JOHAN HEITINGA - MASTERS EXPO
・Michelle Branch On Influencing Taylor Swift, Re-Recording 'The Spirit Room' & New Album
・Soccer, football or whatever: Dutch-Indos/Indonesia-born Dutch Greatest All-Time Team