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アジア初のワールドカップ出場国 - オランダ領東インドのサッカー史

ワールドカップのアジア2次予選が開幕し、日本代表はミャンマー、そしてシリア代表をそれぞれ5-0で破り、好スタートを切った。

今回のワールドカップは23回目を迎え、カナダ、メキシコ、アメリカの3国共同開催となる。

注目すべきは、今回アジア圏の出場枠が4.5から8.5に増加したことだ。

これは、近年高まっているアジアのサッカー熱と経済効果を取り込む意図があると考えられる。

さて、アジアのワールドカップに関する歴史を振り返ると、1938年のフランス大会にまで遡る。

この大会に、ワールドカップ史上初めてアジアの国が参加することになる。

そのアジアの国とはインドネシアである。当時はオランダ領東インドであった。

この記事では、アジアで初めてワールドカップに出場したオランダ領東インドのサッカー史について概観する。

アジアやインドネシアのサッカー、歴史、文化に興味のある方にとって参考になれば幸いだ。

オランダ領東インドのサッカーの歴史

オランダ領東インド(以下蘭領東インド)で、初めてサッカーに関する記録が登場するのが19世紀後半とされている。

この頃、スマトラ島のメダンやジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)で初めてのサッカークラブが設立され、その後アマチュアのサッカークラブが各地で立ち上がった。

この時代の蘭領東インドはオランダ人をはじめとしたヨーロッパ人、華人、土着の人々といった多様なコミュニティから成り立っていた。

20世紀初頭には、これらのコミュニティで数多くのアマチュアサッカークラブが誕生し、それらを束ねるためのサッカー協会が設立された。

1919年にヨーロッパ人コミュニティ主体のNIVB(Nederlandsche Indische Voetbal Bond)という協会が結成され、1924年にはFIFAに加盟した。

このヨーロッパ人コミュニティの動きに触発されて、華人コミュニティは1930年にHNVB(Hwa Nan Voetbal Bond)を、土着の人々は同年にPSSI(Persatoean Sepakraga Seloeroeh Indonesia)を結成した。

これらの協会は蘭領東インド内で対等の力関係を持っていたが、国際的にはNIVBのみがFIFAに認められていた。

こういった背景から、1920年~30年代の対外国際試合はNIVBの管理下で行われ、選ばれたメンバーもNIVB加盟チームから選出された。

しかしながら、NIVB内で不協和音が生じる。

協会内の方針不一致と加盟チームの脱退が原因で、1935年に同協会は解散した。

同年に新たにNIVU(Nederlandsch-Indische Voetbal Unie)という協会を結成。

NIVUはNIVBの機能を引き継ぎ、引き続きFIFAに加盟した。

1937年、NIVUとPSSIは翌年行われるフランスワールドカップに向けて協力することに合意した。

しかし、1938年のワールドカップ出場メンバーはすべてNIVU所属であり、PSSIはこれに不満を抱き、両協会の関係は1年で決裂した。

1942年、日本軍による蘭領東インドの侵攻後、PSSIとNIVUは一時解散した。

戦後、1949年にインドネシアは正式にオランダから独立しインドネシア共和国となる。この際NIVUはPSSIに統合され、今日のPSSI(Persatuan Sepakbola Seluruh India / インドネシアサッカー協会)となる。

その後、PSSIは1952年にFIFAに加盟し今日に至る。

オランダ領東インドによる対外国際試合

1920年代にいくつかの国際親善試合が組まれているが、公式記録としてカウントされていない。

実際に公式記録として掲載されているのは以下の内容である。

1934年 極東選手権(Far Eastern Championship Games)

公式記録の中で蘭領東インドが最初に出場した国際大会は、1934年に開催された第10回極東選手権とされている。

この国際大会はフィリピンのマニラで行われ、蘭領東インド、日本、中華民国(現中国)、フィリピンの4チームが総当たりで競い合った。

蘭領東インド代表はジャワ島の強豪チームから選手を選出し大会に挑んだ。

初戦で日本を7-1で圧倒し、その後中華民国に0-2、地元フィリピンに2-3で敗れたが、得失点差で準優勝に輝いた。

優勝チームは中華民国だった。

この大会の出場は、蘭領東インドにとって史上初の公式国際大会への参加とみなされている。

ワールドカップ予選

1938年 FIFAワールドカップ フランス大会のポスター
著作者:Henri Desmé, パブリックドメイン

File:1938 fifa worldcup poster.jpg - Wikimedia Commons

国際サッカー連盟(FIFA)が主催する「FIFAワールドカップ」は1930年にウルグアイで初めて開催された。

以降、第二次大戦の時期を除いて、4年ごとに国際的なサッカー大会として開催されている。

1934年の大会はイタリアで行われたが、1930年と1934年の大会にはアジアのチームは出場していなかった。

これは大陸間プレーオフで敗退したためである。

1938年のフランスワールドカップに向けて、アジア予選が計画されていた。

予定されていた参加国は、蘭領東インドと日本のみであった。

両者の対戦はベトナムのサイゴンで行われるはずだったが、日本が日中戦争に突入し、予選から撤退した(棄権なのか出場権を剥奪されたのかは不明)。

FIFAは不戦勝での出場に納得いかず、蘭領東インドに対してロッテルダムでアメリカとの対戦を計画した。

しかしアメリカも資金面の問題で失格となり、結果的にオランダ領東インドは一戦も交えることなくアジア地域として初のワールドカップへの出場が決定した。

1938年 FIFAワールドカップ フランス本大会

初戦のハンガリー戦に出場する蘭領東インドのイレブン
出展:HISTORY OF SOCCER, by Andy Macfarlane (June 26, 2022)

1938年のフランスワールドカップに出場した蘭領東インドの代表メンバーは、先述したようにNIVU加盟チームから選出された。

メンバーは蘭領東インド生まれのヨーロッパ人、土着の選手、華人選手で構成され、宗教や民族構成の面でも多様だった。

当時のワールドカップは現在のようなグループリーグ方式ではなく、敗退後即帰国のトーナメント形式で実施されていた。

この大会には16チームが参加していた(オーストリアは後に棄権)。

オランダ領東インドの初戦の相手は1934年大会で初出場を果たしたハンガリーだった。試合は6月5日にランス市のスタッド・オーギュスト=ドローヌ(Stade Auguste-Delaune)で開催され、約9,000人の観衆が集まった。

ちなみにこのスタジアムは現在、日本代表の伊東純也選手や中村敬斗選手が所属するスタッド・ドゥ・ランス(Stade de Reims)のホームスタジアムとなっている。

スタッド・オーギュスト=ドローヌのメインスタンド
著作者:Wahrerwattwurm, CC BY-SA 2.0 DE DEED

File:Stade Auguste-Delaune 2 Tribünen.JPG - Wikimedia Commons

蘭領東インドはオランダの国歌「ヴィルヘルムス」を使用し、国旗もオランダ国旗であった。

ユニフォームはオランダ本国と同じくオレンジ色のジャージ、白いパンツ、水色の靴下だった。

蘭領東インドの主将アフマド・ナウィル(Achmad Nawir)と、ハンガリーのジョルギ・サロシ(György Sárosi )の両主将が博士号を持っている点も注目された。

アフマド・ナウィル
ポジションはミッドフィルダー
試合中は眼鏡をかけていたという
著作者:Unknown, パブリックドメイン

File:Achmad Nawir.jpg - Wikimedia Commons

ジョルギ・サロシ
現役引退後はイタリアに移住し、
ジェノア、ユーベ、ローマなどを指揮した。
著作者:Unknown, パブリックドメイン

File:Sarosi Gyorgy.jpg - Wikimedia Commons

試合はハンガリーが前半4得点、後半2点を追加し、最終的に6-0で蘭領東インドは敗れ大会から姿を消した。

ハンガリーはその後決勝に進出し、イタリアに4-2で敗れて準優勝となった。

なお宗主国オランダも出場していたが、初戦のチェコスロヴァキア戦にて3-0で敗れて大会を去った。

当時の蘭領東インドとハンガリーの試合はダイジェストのような形で動画に残っており、興味のある方は以下のYou Tubeをご覧ください。

www.youtube.com

オランダ宗主国とのフレンドリーマッチ

ワールドカップ初戦の数週間後、6月26日にオランダと蘭領東インドはアムステルダムのオリンピックスタジアムで親善試合を行った。

結果は9-2でオランダ本国の圧勝。

尚この親善試合にはベルンハルト殿下(オランダ王配)も観戦に訪れていたらしい。

ベルンハルト殿下 
ユリアナ女王の王配
著作者:Mieremet, Rob / Anefo, CC BY-SA 3.0 NL DEED

File:Bernhard of Lippe-Biesterfeld 1976.jpg - Wikimedia Commons

この試合を最後に、蘭領東インドは国際サッカーの舞台から姿を消した。

第二次世界大戦と1945年から1949年までのインドネシア独立戦争がその主な理由である。

次に国際舞台に現れたのは、インドネシアが独立後の1956年、メルボルンオリンピックにおいてである。

この大会でインドネシアは、伝説的なゴールキーパー、レフ・ヤシンを擁するソビエト連邦と対戦した。

これは、新たに独立した国家としてインドネシアが国際サッカーに復帰した象徴的な瞬間であった。

ちなみに、インドネシア代表が再びオランダ代表と相まみえたのは、上述のフレンドリーマッチから75年後の2013年になってからであった。

あとがき

現在インドネシアでは1994年に発足したプロサッカーリーグ「リーガ・インドネシア」が存在し、その中でも「リーガ1」が最上位カテゴリーとして機能している(リーガ1は日本のJ1に相当する)。

インドネシアのサッカー熱は極めて高く、週末には国内リーグ戦やイングランド・プレミアリーグの試合観戦に熱中する人々が多い。

サッカーチームに関する知識も豊富で、日本のJリーグについても意外と詳しい人たちがいる。

街角では露店がテレビとゲーム機を外に設置し、子供たちが「ウイニングイレブン」をストリートスタイルで楽しむ姿もよく見かける。

また私が駐在していた子会社では、年に1度フットサル大会が開催されていた。

この大会に向けての情熱は凄まじく、ユニフォームのデザインから招待状の準備まで、細部にわたり手が込んでいた。

大会では驚くべきスーパープレーが繰り広げられ驚かされた。

19世紀後半に始まったインドネシアのサッカー史。

現代のインドネシアでは、上述したようにな形で深く浸透しており興味深い。

この歴史を知ることで、現代のインドネシアのサッカーに新たな魅力を見出すことができるのではないかと思う。

来年1月にアジアカップで日本代表とインドネシア代表が対戦する。

両国間の白熱した試合を楽しみにしている。

 

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*参考文献:

The Dutch East Indies’ summer of football – Back Page Football

Kyoto University Research Information Repository: コロニアルから鏡像へ--地方から見たインドネシア・フットボール史序説

Sebelum PSSI, NIVB Jadi Federasi Sepak Bola Pertama di Indonesia - Semua Halaman - National Geographic

The Dutch East Indies, a colonial team at a World Cup - Football Makes History

Chinese Faces in Indonesian Football: Celebrated Past, Humble Present | SWAKINTAKA